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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第38回 2026年2月24日 コンセール・スピリテュエル パリを訪れた観光客が最も長い時間を過ごすのは何といってもルーヴル美術館である。ここは太陽王ルイ十四世がヴェルサイユに宮廷を移すまで、王宮として機能していた。もっとも、その時代にはセーヌ川に並行する長い回廊を挟んでもう一つの王宮、テュイルリー宮殿があった。一七二五年、音楽家アンヌ・ダニカン・フィリドールはこの宮殿の「スイス衛兵の間」で連続演奏会を始めた。ヨハン・セバスティアン・バッハに四年先んじて生まれたフィリドールは、バッハ家と並ぶほどの音楽家を輩出した家系にあり、貴族たちとの交友が広く行動力もあった。 伝統的な宮廷楽団の枠にとらわれない、広く門戸を開いた演奏会組織の必要性を感じた彼は、友人知人の協力の下、とうとう夢を実現した。演奏会という形の黎明期のことであり、それまでも世界各地に名の通ったものはあったが、先進都市の筆頭ともいえるパリの面目をかけた人材と資金そして企画力で、今で言うコンサート協会的な組織であるコンセール・スピリテュエルは、一躍世界のトップに躍り出る。これがコンサートの歴史の流れを加速し「良い音楽は良いホールで」の合言葉は現在にも及んでいる。 設立当初の演奏会は当然のことながらフランスの音楽家が多かった。今日フランス・ヴァイオリン楽派の祖と言われるジャン=マリー・ルクレールは喝采を浴び、モンドンヴィルもヴァイオリン演奏会で頂点を極め、宗教曲などの作品がひときわ賞賛された彼は、やがて、コンセール・スピリテュエルの監督となった。さらに新しいオルガンが設置されたことで演奏曲目は大幅に増えていった。 だが、テュイルリー宮殿の広間を飾った演奏家で特筆すべきは、はるばるマンハイム宮廷からやって来た音楽家たちである。このコンサート提供団体が抜きん出て歴史に名を残したのは、彼らの力があったればこそである。皮切りは音楽会創設後二十年を経た頃に登場した大御所、マンハイム宮廷楽団の楽長で名立たるヴァイオリニストでもあったヨハン・シュターミツであり、このボヘミア出身のヴィルトゥオーゾの名演奏に、パリの聴衆は一年間を超える至福の時を味わった。 マンハイムの名手たちは宮廷楽長のシュターミツに続けとパリになだれ込んだ。モーツァルトが称賛して止まなかったヴァイオリンの名手イグナーツ・フレンツルは熱狂的な歓迎を受け、フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリングは王族クリスティアン四世と共演した。また、ヨハン・シュターミツの二人の息子カールとアントンはヴァイオリンのデュオで喝采を浴び、オーボエ奏者で作曲家としても著名だったルートヴィヒ・アウグスト・ルブランはソプラノ歌手である妻フランツィスカと共にステージに立ち、パリの聴衆にハイ・レベルの音楽を披露した。遅まきながら登場したのはクリスティアン・カンナビヒ。彼はマンハイム楽派の最後を飾る大物ヴァイオリニストであり作曲家でもあった。パリで不遇のモーツァルトを親身に世話したことでも知られている。 世界最高のオーケストラと評価されたマンハイム宮廷楽団の水準もやがて凋落を見るが、その理由としては、パトロンである選帝侯がマンハイムからバイエルン宮廷に移ったことが大きい。だが私は夭折したヴィルトゥオーゾが余りに多すぎたことも、大きな要因だと私は思っている。ヨハン・シュターミツは三十九歳、チェロ奏者アントン・フィルツとヴァイオリン奏者ヨハネス・リッチェルは共に二十六歳で天に召される。ファゴット奏者のエルンスト・アイヒナーは三十七歳。コンセール・スピリテュエルを沸かせた前述のルブランは三十八歳、その妻フランツィスカはモーツァルトと同じ年に三十録歳という同年齢で亡くなっている。かくも多くの人材があまりにも早く黄泉に入ったことは、マンハイムのみならず、当時の音楽界に大きな打撃を与えたであろう。 コンセール・スピリテュエルの評判により、恒常的演奏会開催への運動が世界各地に広がった。ヨハン・シュターミツは一七五四年、コンセール・スピリテュエルで絶賛を博すと同時に、翌年にかけて、パリのブルジョワ、ル・ルシュ・ド・ラ・ププリエールの楽団の指揮者を務め、そこでフランソワ=ジョゼフ・ゴセックと知り合う。ゴセックはシュターミツからマンハイム楽派の影響を大いに受け、フランスの音楽界に強い影響力を持つ者としての歩みを始めるが、二年後に頼りとするシュターミツは夭折する。コンセール・スピリテュエルとの関係を保ちながらも、ゴセックは論争の渦中にあったグルックのオペラ作曲を支持し、大革命の中でも己を見失うことなく社会および国家への貢献を続け、九十五歳という長寿を全うした。ハイドンの二年後に生まれ、ベートーヴェンやシューベルトの没後まで生きたゴセックが、長寿の割には軽妙な《ガヴォット》一曲でしか知られていないのは皮肉なものだ。 フランスやマンハイム以外の巨匠として、イタリア生まれのルイージ・ボッケリーニを忘れることは出来ない。当時二十代半ばのこの偉大なるチェロ奏者は僅か一年だけパリで活動し、コンセール・スピリテュエルにも出演した。ヴァイオリン奏者のフィリッポ・マンフレーディと組んだと言われ、多くの称賛を受けたが、パリ駐在のスペイン大使の目に留まり、その声掛かりでボッケリーニはスペインの宮廷に赴き、これがマンハイム楽派やハイドンとは一味違った音楽的個性をボッケリーニに授けることになった。 さらに加えれば、一七六九年にゴセックはパリで演奏団体コンセール・デザマトゥールを創設する。これは十年余を経てコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックと改称して、ハイドンに交響曲作曲を委嘱、《第八十二番》から《八十七番》までの交響曲が誕生した。この六曲は《パリ・セット》と呼ばれて親しまれている。エステルハージ家以外の仕事として、ハイドンにとっては最初のことであり、ハンガリーで熱意を失いかけていたハイドンはパリからの依頼に力を得て、これらの作品に独創的な閃きを見せた。ハイドンの交響曲で我々が日常耳にするのは、この《パリ・セット》以降のものである。 この時代は音楽家たちが王侯貴族の庇護下にあり、モーツァルトをはじめ、誰もが宮廷や教会での地位を求めた。そんな彼らにとって「コンセール・スピリテュエル」のようなコンサートでの演奏や作品発表が叶うのは願ってもないことだった。ここでの成功の如何は彼らの評価に直結し、より強力なパトロンを得たり待遇改善の扉を開いたりする鍵ともなった。言い換えれば、パトロンにとってもお抱えの音楽家が得た栄誉は国家的名誉となったのである。 旅に明け暮れていたモーツァルトは恋人に巡り会ったマンハイムをよく訪れた。世界一と折り紙のつけられたこの町のオーケストラがモーツァルトに影響を与えない訳がない。マンハイムで発達した新楽器クラリネットを初めて作品に使った《パリ交響曲(第三十一番)》はコンセール・スピリテュエルでの初演のために作曲された。切っ掛けはこの団体の支配人ジャン・ル・グロから受けた作曲依頼である。色彩的で活力に溢れたマンハイム様式にパリのギャラント・スタイルを加えたこの作品は、モーツァルトの新たな出発点と言っても良い。マンハイム楽派による数多い自作交響曲の演奏にハイドンやモーツァルトの名作が加わり、特に交響曲部門の発達の上で、コンセール・スピリテュエルが果たした役割は高く評価してよいだろう。 折から、ミラノ・スカラ座がサリエリ作曲《見出されたエウローパ》でオープンし、パリでは世に知られたグルック・ピッチンニ論争が巻き起こり、音楽界の潮流は目覚ましく変化していた。新時代の芸術で賑わい、鑑賞力が育っていくと同時に革命の影も忍び寄った。不穏な空気の中でコンセール・スピリテュエルという大輪の花は栄枯盛衰の言葉通り、一七九〇年に幕を閉じ、翌年、フランス議会がテュイルリー宮殿を拠点とするが、偉大な演奏会の数々はいつまでも音楽を愛する人々の心の中に生き続けたのである。 テュイルリー宮殿は歴史を語る。ヴェルサイユからパリに戻った時のマリー・アントワネットやナポレオンはここに住んだ。パリ市民に愛された宮殿は一八七一年のパリ・コミューンの混乱の中で焼失し、現在は広い公園として利用されている。特にフランスで進歩を見せていた写真技術により、モノクロではあるがその雄姿や内部の主たる部屋の見事なフィルムが残されており、当時を偲ぶことができる。焼け落ちた二年後、ムソルグスキーは名曲《展覧会の絵》を仕上げるが、この組曲の第三曲目は『テュイルリー』と題され、公園で遊ぶ子どもらの微笑ましい姿が描かれている。果たしてムソルグスキーは、この広場がパリの音楽愛好家たちの「夢の跡」であることを知っていただろうか。 今世紀に入って、この偉大な建築を再建しようという大プロジェクトが進行しかけたが、多くの問題点を前に立ち往生しているらしい。もし再建されれば、栄光あるコンセール・スピリテュエルも必ずや復元されるであろう。趣ある宮殿の一室での小さなコンサートに人気が集まる今日、その頂点を極める伝統ある演奏会場としてパリの新名所となり、過去の栄光が再評価されるかも知れない。 ![]() レコード『マンハイム楽派の音楽』。ドイツ・アルヒーフ社。 |