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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》



第39回 2026年3月3日

メンデルスゾーンと絵画


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 写真の無い時代、余裕のある者は出来れば名高い画家に肖像画を描いてもらうのが夢だった。大バッハ以来多くの音楽家の肖像画が描かれたが、19世紀半ばに写真が肖像画に取って代わるまで、最も多くの肖像画を残したのはメンデルスゾーンでは無いだろうか。これは、彼の父が著名な銀行家であったという経済的な理由と、神童と謳われ、37歳と短命ながら、生前は最高の音楽家として認められていたことに拠るのだろう。
 だが、更に加えたいのは、メンデルスゾーン本人が絵筆を握れば並々ならぬ力を示したというあまり知られていない話。しかも、メンデルスゾーンがまるで二人三脚をするかのようにして生涯を駆け抜けた姉ファニーもまた、弟顔負けの音楽家であり、絵も描いたという事実。しかもその夫はベルリン美術学校で教える画家だった。つまり、常にこの姉弟を取り巻く環境は、音楽と美術に溢れていたのである。
 裕福なメンデルスゾーン家では子供を学校に通わせなかった。すべての学科を家庭教師に学ばせたのだった。音楽と絵は情操教育としての嗜みを遥かに超えて、二人とも抜きんでた才能を示した。勿論歴史に名を残した音楽とは比較にならないが、特に弟フェリックスの絵画の力は相当の鑑賞力を持つ者の眼にも耐えられるものだった。
 1830年、姉ファニーの結婚の翌年、メンデルスゾーンはヴァイマールに80歳を過ぎたゲーテを訪ねた。それは5度目の訪問だった。ゲーテは早くから20歳を超えたばかりのこの作曲家を世界に冠たる天才であると認めていた。そこでゲーテは、『ファウスト』の原稿を彼に手渡しながら「ぜひイタリアにお出掛けなさい」と勧めた。己が霊感を受けたイタリア旅行がこの類まれな青年をもひと際高めてくれるだろうと思ったのだろう。

 メンデルスゾーンにとってイタリア音楽は過去の栄光でしかなかった。前年、大バッハの『マタイ受難曲』の歴史に残る復活公演を実現したばかりである。いまや、ハイドン、モーツァルトそしてベートーヴェンを凌ぐ音楽家は他国にはいない。イタリアで学べるものは何か。と、考えるや脳裏には反射的にルネサンス美術のことが浮かんだ。これには、姉ファニーの夫ヴィルヘルム・ヘンゼルの影響もあった。彼は一昨年3年間のイタリア滞在、ラファエロの複製画を書き続けた生活からベルリンに戻っていたのである。
 ゲーテと別れた4か月後にメンデルスゾーンはローマの土を踏んでいた。思った通りだが、イタリアのオーケストラの水準の低さには呆れた。モーツァルトやベートーヴェンは殆ど演奏されなかった。彼の耳にはロッシーニの笑いを誘う音楽だけが鳴り続けていた。そんな時彼は決まってピアノに向かって楽想をひねるか、郊外に出掛けて絵筆を握った。どこへ足を延ばしても溜息の出るような美しさだった。メンデルスゾーンは人物や町を描くのは苦手だった。
 そんなとき彼の前に現れたのは思いがけない知人だった。デュッセルドルフ美術アカデミーの校長、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シャドウ。デュッセルドルフでは何度か会っていたし、絵の話は実に楽しかった。メンデルスゾーンにとっては少々堅い画風だったが、彼ほど画学生から慕われ、社交界の評判の良い人は稀であった。シャドウにとっても、今を時めく同国人の若き音楽家のホープとの出会いは幸運だった。
 二人は意気投合した。シャドウとはデュッセルドルフでも絵の話に興じたが、山のように仕事を抱えて身動きの取れなかったドイツではなく、ここイタリアでは話に集中できる。そして、シャドウから願ってもいない提案があった。「いかがですか、一緒に絵を描きませんか」と。メンデルスゾーンは舞い上がった。ドイツに居たら恐れ多くて決して本気にできないだろう。だが、ここはイタリアだ、ローマだ。自分には音楽を離れて多くの時間がある。今取り掛かっているのは交響曲(イタリア)ひとつだ。しかも、この作品は絵画的な美しさで埋め尽くされている。

 21歳年長のシャドウは若い頃8年間もイタリアで過ごしていた。絵の仲間も多く、風光明媚な場所はどこでも知っており、メンデルスゾーンをナポリに連れ立った。船でイスキア島やカプリ島へも出かけた。たわわに実ったオレンジの黄と艶やかで濃い緑の葉越しに見える空と海の青はメンデルスゾーンの心に豊かな旋律を運んできた。二人でポンペイにも旅をした。そこでは、自然の脅威におののくだけで、頭の中が空洞になるだけだった。
 ローマにいたメンデルスゾーンにパリから二つのニュースが入った。一つは、革命騒ぎで騒然としているということ。もう一つは、12月にベルリオーズが『幻想交響曲』という、途方もない噪音で耳を塞ぎたくなるような作品の初演をしたということ。メンデルスゾーンはどちらにも大きな興味を示さなかった。気持ちよく絵筆をとっている毎日の中では受け入れがたい話だった。だが、ローマに戻ったところでシャドウが言った。「フェリックス君、パリから来たベルリオーズと言う男が会いたがっているそうだよ」。
 パリ音楽院では作曲で一等賞をもらった学生は、『ローマ賞』という褒美が与えれられる。ベルリオーズはそれでローマに留学していた。降って沸いた話だが無下にも断れない。メンデルスゾーンは一目見て耳にしていた『幻想交響曲』とその男の印象が重なった。櫛も入っていないような髪で、目が異様に大きく鋭かった。そこで話題になったのは5年前に亡くなったヴェーバーのことだった。オペラ《オベロン》には二人とも興味を持っていた。こんな妖精物語を書きたいと思っていた。実際メンデルスゾーンは描写音楽『フィンガルの洞窟』を書き上げたばかりであり、そして頭の中にはいつも『最初のヴァルプルギスの夜』の音楽があった。

 さて、メンデルスゾーンがイタリアで描いた絵の一つを見てみよう。彼は遠景を好んだ、パノラマを好んだ。ミュンヘン、リンツ、ヴィーンを経てヴェネツィアへ入り、次に訪れたのはルネサンス絵画に溢れたフィレンツェだった。勿論小品は作曲していた。『無言歌』の一つである『ヴェネツィアの舟歌ト短調』を。
 フィレンツェではルネサンスの芸術をくまなく見て回ったが、その間も絵を描きたくて仕方がなかった。街中では良い題材に出会わなかった。しかも観光客で賑わっている中では落ち着いて絵筆を握れない。フィレンツェにはちょっと足を延ばせば手ごろな小高い丘は至る所にあった。彼は迷わず坂道を登って、最も書きたいと思っていたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂が最も美しく見える場所を見つけた。
 背景となるなだらかな稜線はこの上なく美しかった。私はこの絵を実際に見ていないので分からないが、恐らくこの絵の本物を見たら、鉛筆による下絵が確認できるのだろうが、全く諄さの無い、あっさりとして爽やかなタッチである。山並みを背に前景を緑で包まれた大聖堂を撮った絵葉書はこの絵とほどんど変わらない。
 左右の枝が不自然に伸びて手をつないでいるような描写は実に子供っぽいが、若いメンデルスゾーンのロマンが感じられて好ましい。恐らくこの絵はメンデルスゾーンの全絵画中もっともよく知られたもので、多くのレコード・ジャケットに使われている。この絵を描いた後5カ月間のローマ滞在となるのだが、そこで有名な『イタリア交響曲』の作曲に着手することになる。イタリアを旅する誰もが感じる開放感あふれる空の青さをメンデルスゾーンもキャンバスに残したかったのだろう。

 ベルリンに戻った翌1832年、ゲーテが82歳で、そして恩師ツェルターが亡くなった。ツェルターはベルリン・ジング・アカデミーの指導者であり、メンデルスゾーンは自分がその後任に決まることを信じて疑わなかったが、思いがけず選挙でルンゲンハーゲンに敗れた。彼にとってベルリンは居心地が悪くなった。
 メンデルスゾーンを好意的に受け入れてくれる町が二つあった。ロンドンとデュッセルドルフだった。ロンドンでは既に何度か歓迎されており、生涯10回も旅をすることになる。そんなところに翌年デュッセルドルフから思わぬ誘いが届いた。ニーダーライン音楽祭の指揮者およびデュッセルドルフ市の音楽監督としての要請だった。ニーダーライン音楽祭はデュッセルドルフ、ケルン、アーヘンの持ち回りで毎年開催されるもので、レベルの高いことはよく知っていた。メンデルスゾーンの頭を画家シャドウの名が巡った。
 メンデルスゾーンはデュッセルドルフ交響楽団に喝采で迎えられた。そして、美術アカデミー校長のシャドウとその名立たる生徒たちの大歓迎を受けた。ここデュッセルドルフは当時のドイツ絵画の中心地でもあり、彼の絵画熱は再び燃え上がった。「今度はライン河も描けるのだ」。中でもシャドウの弟子であり教授でもあったシルマーは水彩画の達人だった。彼の絵の持つ明るさは魅力的であり、メンデルスゾーンにとっては最高の指導者となった。
 シャドウはメンデルスゾーンの肖像画を描いた。モデルの表情の中に性格までが映し出されているような見事な作品である。やがて肖像画にとって代わる写真撮影を想像しても、これはそれを上回る表現である。そして、2年後ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任しデュッセルドルフを立つ直前にヒルデブラントによって描かれた絵も、ロマン主義の喜びまで放出されているようで出色の肖像画である。肖像画家は辛い仕事も引き受けなければならない。やはりシャドウの弟子ヒューブナーとペンデマンは死の床のメンデルスゾーンを描いた。この世と天上の間を彷徨う音楽の使いを愛情を傾けて表現した。

フィレンツェ
  『フィレンツェ』1830.10 メンデルスゾーン画

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