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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第23回 2025年11月11日 ヨセミテ 高校時代にグローフェ作曲の《グランド・キャニオン》を聴いて以来、壮大なパノラマ的風景は私の憧れとなった。それまでは、スイス・アルプス・マッターホルンの勇壮な姿に夢を抱いていた。小学校高学年の時、大判の写真に刺激されたのが始まりであり、その後、母校の大先輩である槙有恒氏によるマナスル初登頂のニュースによって燃え上がり、長いこと続いた。結局、自身の山登りにはつながらず、風景画に描かれた世界に浸ることで満足したまま年老いた。 サンフランシスコの友人ダン・オーパーマンは私のグランド・キャニオン好きをよく知っており、いつか一緒にヨセミテへ行こうと言い交わし、彼からその素晴らしさは随分聞いていた。八時間のドライヴで行ける距離なので彼らにとっては、絶好のキャンピングの場所である。可愛い孫のエリザベスが三歳も過ぎるや、娘夫婦と度々出かけ、まるで私を煽るようなメールがよく届いた。同伴できるのを目前にして、三十年という年月を度々共に過ごした彼は黄泉に入って長い。 アメリカ人は己のルーツに強い関心を抱いている。ダンの父方はライプツィヒであり、母方はスイスだという。何でも、一九〇六年のサンフランシスコ大地震から少し経って移住してきたらしい。第一次大戦を逃れてきたのかも知れない。彼は己のルーツを訪ねる夢を持っており、私は仕事柄出かけることの多いライプツィヒの話をよく聞かせたものだ。そんな時は決まって二人でライプツィヒに出かけようと意気投合し、もしかしたらダン・オーパーマンはプランを練っていたかも知れない。 ところで、それより八十年以上前に、ゾーリンゲンからマサチューセッツに渡った一組の家族がいた。二歳になる赤ん坊を抱え、誰もがそうであるように、ダン・オーパーマンの祖先と同じ志で新天地での希望に胸膨らませ、同時に、不安で目の定まらない親子であっただろう。幼子の名はアルバート・ビアシュタット。絵の才能に恵まれた彼は、生まれ故郷への思いもあって、当時数多くのアメリカ人画家が目指していたデュッセルドルフに渡り、美術アカデミーに入学した。修業を積んだ後ローマでルネッサンス絵画に触れ、アルプスの空気を吸い、夢と大志を抱いてアメリカに帰国した。その二年後契機が訪れる。フレデリック・ランダー率いる政府の西部測量隊に加わることができたのである。記録写真を撮るように、現地の状況をスケッチ帳に描くのが彼の役割だった。これらをもとに、住んでいたニューヨークのアトリエでキャンバスに仕上げた。 この頃描かれた未開のキャニオンの風景画が生地ゾーリンゲンの美術館にある。デュッセルドルフで学んだ古典的、ロマン的情趣で埋め尽くされたものだが、勢いはあるものの未熟な部分も多い。これが、測量調査地での記録であるとしたら、北斎の版画でもって富士山を説明するようなものだ。だが、これがアメリカの広さなのだ。開けたヨーロッパとアメリカ東海岸しか知らなかったビアシュタットにとって、初めて目にする西部の山々は異国を眺める思いだっただろう。一方、この後何度も測量の旅は続き、こうした秘境での経験によって磨きのかけられた腕は、やがてアメリカ風景画の世界(それはハドソン・リヴァー派と呼ばれている)の頂点にまで登り詰めるのである。 ビアシュタットに二か月先んじて、ニューヨークの宿屋経営者の息子として生まれたカールトン・ユージン・ワトキンスは、狩りや釣りに夢中になって幼き日を過ごした若者であったが、周りの者の影響もあって、世界を揺るがすような話に奮い立った。カリフォルニアで発見された金鉱、いわゆるゴールド・ラッシュである。胸弾ませて友人とサンフランシスコに向かったワトキンスは、二年間の採掘労働に励んだおかげで、それなりの資金を手にした。そこで興味を向けたのがまだまだ未知の世界であった写真である。 一緒に金を掘った友人はさらに成功していた。その名をコリス・ハンティントン。先見の明のあった彼は有望な産業となっていた鉄道に目をつけ、採掘で得た資金を投じてセントラル・パシフィック鉄道のオーナーの一人となり、親友ワトキンスを支える。三十歳を越えたばかりの果敢な青年はこのような背景のもとに本格的に撮影への道を踏み出し、まさにアメリカ的パイオニア精神のモデルとでもいえそうな人生を歩み始める。町に住んでいても彼の望むシャッター・チャンスは転がっていない。彼には採掘の時目にしたロッキーの山々が印象づけられていた。 重い機材をラバに積んでの移動そして野宿の連続も、重労働で鍛えた彼には大きな壁とはならなかった。目指すは崇高な峰々、険しい渓谷、巨大な樹木に包まれた森。広大な自然を収めるために、彼はステレオ・タイプの写真を考案した。こうして生まれた眼にも眩しいヨセミテの風景写真が、一八六一年ニューヨークで公開される。同じ町に住んでいた画家ビアシュタットがこれを見逃すはずがない。写真家が画家に啓発されることは多かったが、今度は画家が写真家に啓発されたのである。もはや、ビアシュタットの頭から「ヨセミテの谷」は離れなくなった。 ハドソン・リヴァー派の先輩たちが東海岸の神秘的風景を教えてくれたように、ロッキーの自然もまた雄々しいと同時に崇高である。それから数年して、ビアシュタットは傑作《マーセド川、ヨセミテの谷》(ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵)を完成する。主題はそびえたつ険しい岩山。それは画面右にも続いていることがおぼろげながら分かる。水面が画面を分け、遠近感や広がりを持たせる。また、神の住む山と人間界を分けるという意味もあるが、物見台のように突き出た岩は、圧倒的な存在感を示す山と同種の岩であろう。 そこに群がるのは犬を交えたインディアンたち。インディアンにも犬を飼う習慣はあった。彼らにとっても、ここは信仰の山であろう。右手では馬や羊がゆっくりと草を食んでいる。前景の木々の葉が厳しい風土であることを示す。このような奥地でさえ、インディアンたちは日帰りができるところに居住地を与えられていたのだろう。突き出た岩に一人離れた女らしき者は巫女のように見えるが、民族学を専門とする知人の話によれば、インディアンのシャマンは父系で継承されたらしい。また、このインディアンはミウォク族のアワニ部族だろうという。どうやら彼らはここに詣でて、踊りを伴う儀式を執り行っているようだ。カリフォルニア・インディアンの歴史は紀元前九千年に遡ると言われる。もっとも、ヨセミテの証拠はずっと新しい。 ハドソン・リヴァー派の画家たちは、自然の風景の中によくインディアンを描いた。また、肖像画を含めた人物画も数多く、それらは当時の先住民の風俗を知る上で貴重な資料となっている。 二十世紀末頃まで、私が行く先々、西海岸でも東海岸でも、アメリカでは巨大な「まつぼっくり」を売っていた。二十年も経って、最近ではすっかり見かけなくなったのは、乱獲で少なくなったのかも知れない。でも、毎年新しい種子を作るのだから、減るにはほかの理由がありそうだ。これを花屋の店先で初めて見た時は驚いた。片手で二個は持てない大きさだ。形は完全に統一されてはおらず、太ったものやら痩せたものもあったが、大きな違いは無い。数日おいて出掛けたらそのまま残っていた事もあったので、飛ぶように売れていたわけではない。 わが家の樹齢二百年は越える赤松の木が落とすのは、重さが八グラム程度の小さなまつかさだ。ところが巨大なアメリカ産は一個で二百グラムもある。胴回り?は三十センチ、背の高さが三十センチを超えるものもある。随分前のことだが私は悪戯を思いついて、大きなまつかさをわが家の赤松の木の下に放っておいた。お祓いに来た神主さんがそれを見つけるや松の木を見上げ、ちょっと首を傾げるや、にやりと笑った。 メタセコイヤのように巨大な松があるのだろうと思っていたら、ヨセミテに育つ特別の松の木にだけ実るそうだ。もしかしたら、現地では土産品として売られているかもしれない。私が買った当時は、一個十ドル程度と安かった。クリスマス・シーズンになるとよく売れたらしい。特にデパートなどで大きなツリーや巨大リングには欠かせないものだった。商売上手な日本人なら誰かがこれを栽培しそうなものだが、その兆しもないのは気候が違っていて難しいのかも知れない。 さて、ヨセミテに因んだ音楽としては、スーザ作曲の行進曲《エル・カピタン》がある。昔は中学生や高校生のブラスバンド演奏で良く聴かれたものだ。スペイン語で『岩の族長』を意味し、実際にこの名を持つ花崗岩の巨大な岩山がヨセミテ渓谷に存在するという。その傍をビアシュタットの絵に描かれたマーセド川が流れているのだが、この絵に描かれたものが『エル・カピタン』であるかどうかは判断がつかない。信仰の対象であったからこそ、この名で呼ばれるようになったのだろう。 ![]() ヨセミテの松ぼっくり 小さいのは筆者宅の赤松の実 |