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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》



第22回 2025年11月5日

コルンゴルト オペラ《死せる都》


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 幼き日をブルッヘ(ブルージュ)の隣町ヘントで過ごしたジョルジュ・ローデンバックの原作になる『死の都ブルージュ』は、コルンゴルトのオペラによって歴史に残された。ブルッヘとヘントと言う二つの町は手を取り合って生きてきた兄弟のような印象がある。この地域フランドルは、全盛期の十四世紀末から十五世紀にかけて、偉大なるブルゴーニュ公の下、世界文化の中心地となった。現在は地方の観光地に過ぎないブルッヘが『死の都』などと言う有難くない名で呼ばれたのは、盛衰の落差が大きいからだろう。
 その町を背景として、もっともらしい物語が産み出され、「死」の対極にある「生」に溢れた音楽となって蘇生されたブルッヘであるが、少なくとも、今や遺産としての輝きしか持たないブルッヘそのものに、もっと光を当てて欲しかった。何故なら、コルンゴルトの主題は妻マリーの思い出に生きるパウルの姿であり、過去から逃れられない存在として、パウルとブルッヘの町は鮮やかに二重写しとなるのだから。妻マリーを亡くしたパウルは、長い金髪の遺髪をはじめ、彼女の思い出に埋め尽くされた家で懐古の情に浸った生活を続けている。そんなある日、町でマリーと瓜二つのダンサー、マリエッタに出会い、余りの驚きと喜びで自制心を失ったパウルは彼女を家に招く。マリエッタの魅力の持つすべてが今は亡きマリーを感じさせ、パウルは林を得た鳥のように、深みにはまっていく。
 オペラの半分以上を占めるパウルの夢の場面が始まり、自暴自棄になったパウルの姿が次々と描かれる。現実の世界であれば踏み止まれる行動が、夢であるがゆえに制御できない超現実の世界である。それは、幕切れ近くまで長いこと続き、見事な不条理劇が展開される。ここは世界の演出家の腕の見せ所でもある。やがて夢から覚めたパウルの前に、家に置き忘れた傘を取りに戻ったマリエッタが現れ、オペラはあっさりと終る。
 私は最後のシーンになるとリヒャルト・シュトラウスのオペラ《ばらの騎士》が頭をよぎる。マリエッタが現れて忘れた傘を持ち帰る。方や、使用人の子供がゾフィーの忘れたハンカチを見つけて部屋を出るや幕が下りる。しかも《ばらの騎士》のストーリー自体も夢物語のように思われる。いや、確かに、過去の栄光を追い求めるという主題はこの二つのオペラを貫いている。《死せる都》の作品の夢の部分は荒唐無稽で難解な部分もあるが、前述の短いあらすじを掴んでいれば、大きく外れることはない。二十世紀末以降上演頻度が際立って増えたオペラの一つであり、私は十年間に欧米で六回のステージに接した。その都度感動を新たにできたのは、このオペラが難解さの陰に、多様なアプローチの可能性を秘めているからであろう。以下はそれらの観劇の覚書から拾ったものが多い。

 モーツァルトを越える神童と讃えられたコルンゴルトが、僅か二十二歳で書き上げたオペラがこれである。見事なドラマの仕立てには、夭折したペルゴレージでさえ顔を蒼白にしたに違いない。しかも、大帝国時代の栄光薄れゆくヴィーンで誕生し、君臨していたリヒャルト・シュトラウスやマーラーをも驚かせたという一方で、若さゆえに自己確立できていない嫌いは残る。それは折衷的と言っても良い。オペラ《死せる都》の中には後期ロマン主義的な部分が多く、具体的にはプッチーニをはじめとして、先の二人の大家の香りも漂う。レハールの世俗からは一歩救われているが、作曲家としては途上であり、個性が感じられるというよりは、没個性の面がまだまだ見受けられる。言い換えれば、全てに通じ全てを音にすることができていながら、結局自分自身を確立できずにいる天才コルンゴルトが見え隠れする。
 髪には霊魂が宿るようだ。遺髪を形見とする話はわが国にもあるが、この物語では遺髪をはじめ肖像画や調度品そして部屋全体がマリーの形見であり、パウルの心に喪失感はいささかもなく、彼の妄想の中で二人の愛は続いている。ヨーロッパでは狩猟で得た獲物の頭部を剥製にして飾る習慣があるが、それは日本の魚拓同様、己の手柄の証拠として、また、輝かしい瞬間の記憶を残したい思いによるものだろう。ニュアンスは幾分異なるが、パウルの思い入れの中にはそれと近いものを感じる。パウルの性格に、強い幼児性を指摘する人もいる。確かにそうした側面から見れば、物語の多くの場面に当てはまる。一方にはマリエッタの執拗な支配欲。それは成熟した人間にありがちな愛しい者の独占欲。ここでは死者(マリー)と生者(マリエッタ)が己の我を競うのだが、一方が無邪気であるほど二人の個性のぶつかり合いは激しさを増し、効果的なドラマへと発展する。
 パリ・シャトレ座公演でのパンフレットに掲載されていた写真では、マリーの顔をした仮面の下に髑髏が隠れているものがあった。私にはこれがストーリーの持つ意味を根底から覆すようにも思われる。もしかしたら仮面はマリエッタの顔であり、マリエッタは死者マリーが乗り移り、パウルの情愛の深さを確かめに現れた霊的存在なのかも知れない。当時はフロイトとか心霊写真とかが世に溢れていたので、原作者ローデンバックに大きな影響を与えたとしても不思議はない。

 パウルの夢の中では旅芸人たちの乱痴気騒ぎとなる。第一幕でマリエッタが「私は舞台で踊るの、出し物は悪魔のロベールよ」と言った記憶が夢の中で奇怪な場面を作り上げる。ここで、マイアベーアのオペラ《悪魔のロベール》の情景が織り込まれ異様な効果を生む。これは、第一幕でマリエッタが歌う『リュート・ソング』との対極にある。さりげなく古都ブルッヘを偲ばせる古楽器を持ち出す巧みな演出。いかに多くのフランドル絵画に、リュートという楽器が描かれたことだろう。さらに、姦淫の罪で葬られた尼僧たちの蘇りは、広く知られているブルッヘのペギン会修道女たちの登場によって神秘的雰囲気を増幅し、作品のテーマであるパウルの心の中で生きている死者というテーマに結びつく。こうしてみるとこの作品は、徐々に高まった感情が空想の世界で炸裂し、その後力を失い萎えていくという流れがあり、炸裂の頂点が高く築かれるほど裾野が広がる。
 このオペラの最も象徴的な部分は、第二幕の最後でパウルがマリエッタに対して吐く言葉だろう。「マリエッタを愛しているのではなく、マリエッタの中にある妻の面影を愛していた」。これと同様の心理はヴェルディ《椿姫》の終幕で、瀕死のヴィオレッタが恋人アルフレートに告げる言葉にもある。「清純な乙女が現れたら結婚してね。その方に私の肖像を渡して、この不幸な女のことを話してあげてね」と。この場合ヴィオレッタは、たとえ死んでも己は新たな恋人の中に生きたいという心理を覗かせているように思われる。
 時折東洋的なペンタトニックや、《トゥーランドット》のピン、パン、ポンの場面を彷彿とさせる音楽が現れたりすると、思わず想像してしまう。このオペラをプッチーニが創っていたらどのようになっていただろうと。コルンゴルトはあまりにも美しい音楽を与えすぎている感もあるが、プッチーニの様式をもってすれば、一味も二味も違ったものになるだろう。実際《ラ・ボエーム》はレオンカヴァッロも創っているのだから、実現不可能ではなかっただろう。思い出して欲しい、コルンゴルトの死生観がこの音楽にあるとしたら、プッチーニは《ジャンニ・スキッキ》の中で死者を弄んだのだ。さらにまた、多くの演出家が第二幕の歌と踊りの場面で滑稽味を織り込む。ここには、オッフェンバック風着想も感じられ、先のマイアベーアと共に相異なるフランスが顔を覗かせている。

 コルンゴルトがマリー役の声のモデルにしたというマリア・イェリッツァが語るように、この役はパウル以上に難しい。何よりも死者と生者の二面的表現、取り分け心の移ろいを歌い演じることは至難の業であろうし、さらにプロフェッショナルな踊りという大変な要素が加わる。私は理想的なマリー役に出会ったことはない。幸い、イェリッツァが歌う『リュート・ソング』はSPレコードに残された。四十歳にしてたっぷりと落ち着いた透明な声は鮮明に録音されており、コルンゴルトの意に沿った歌唱として貴重である。
 ニュルンベルク歌劇場での上演はコルンゴルトがヴィーンの寵児であったことを改めて感じさせた。よく聴けばワルツやポルカに似た陽性のフレーズや豊かな潤いを持った短い旋律が散見される。ヴィーンという大粒の宝石を粉々に砕いて全体にちりばめたような、それはリヒャルト・シュトラウスの特徴でもあるが、もっと上品で育ちの良い、若さゆえに毒されていない音楽が僅かな隙間の中にたくさん隠されていた。モーツァルトの再来として注目されていた彼は一躍脚光を浴び、オペラ界の頂点を極めたかに見えた。色彩画家フランツ・マルクは戦場の露と消えたが、コルンゴルトはその名が意味する「穀物+金」に象徴されるユダヤの血が混じる己を迫りくる毒牙から守らねばならなかった。新天地アメリカに希望を託すが、オペラへの情熱は今を時めくハリウッドでの映画音楽の作曲に向けられた。是非の判断を私には下せないが、この作曲家は死後百年を経てから小さなブームを呼んでいる。何らかの理由があってのこととは思うが、惜しむらくは、このオペラの録音をクレメンス・クラウスが残さなかったことである。ナチス統治下という状況に阻まれたものか、音楽界という泥水を浴びせられたものかは分らぬが、実現されていたならば、貴族趣味に照らし出されたヴィーンの残り香に包まれた格調高い音楽を我々は聴くことができただろう。

死の都
  『死の都』のレコード
 ラインスドルフ指揮 米RCA(世界初録音)

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