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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》



第20回 2025年10月21日

ブルッヘと宗教画


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 英語名ブルージュで知られる古い町だが、オランダ語のブルッヘに私は馴染んでいる。アントウェルペンの友人と話す時、その言い方をしないと必ず注意される。隣の町ヘントについても同じだ。ゲントと言えば首を傾げられる。説明を加えれば、「G」の発音がオランダ語では「ハ」行であり、喉の奥の方で発音する。有名なコンサート・ホール、コンセルトヘボウをコンセルトゲボウとは呼ばない。ブルッヘとは「橋」を意味する。ドイツ近代絵画の一派「ブリュッケ」はドイツ語で「橋」のこと。
 町中に運河が巡っており、橋が多いところからブルッヘの名が付いたと言われる。運河というものは相当古い歴史を持つようだ。それによって、この町は水の都としても有名で、「北のベニス」とも呼ばれている。ブルッヘの町は今や観光地として中世の面影をそのまま残す古都の町並みで人気を呼んでいるが、それはガイドブックに任せるとして、町の歴史に始まって、絵画の話に移っていきたい。
 平家物語に詠まれる栄枯盛衰という表現はこの町によく当てはまる。私はそうした転変の良い例として話を進めたい。十九世紀末にジョルジュ・ローデンバックの小説『死の都ブルージュ』が書かれてから、この町はミステリックな烙印を押された。ある意味ではゴースト・タウンのイメージでもあったのだろう。だが、ブルッヘの名誉のために言い添えるが、ローデンバックの眼に映ったほど荒廃したことは一度もない。この町は第二次大戦での戦禍も少なく、今でも在りし日の佇まいを見せている。
 十五世紀に大変な繁栄を誇ったと言っても、中々ピンとこないだろう。まず、人口を参考にすると分かりやすい。その頃のブルッヘは約六万人、ロンドンはそれより一万人少なく、ブリュッセルやアントウェルペンは半数しかなかったし、古都ローマでさえ四万人に満たない。その大きな理由はフランドル伯爵領でありながら市民の力が強かったことによる。水運を利用した貿易や、ヨーロッパ有数の港を持ち造船業も栄えた。なかんずく、対岸のイングランドから輸入した羊毛によって生産する毛織物産業は、揺るぎない繁栄を築き上げた。今で言う加工貿易であり、その姿はわが国と似る。そんなことから、歴史上最初の資本主義はブルッヘで芽生えたとも言われている。
 繁栄は文化を生む。ローマ、フィレンツェ、パリ、ニューヨークと挙げればきりがない。ここで最初に育まれたのは絵画である。イタリアに先駆けて油絵が発祥したのは、この町に代表されるフランドル地方であるというのが定説になっている。だが、芸術の話を分かりやすくするために、まず、この地方における絵画黄金期の流れの中で、ブルッヘという町がどのように変化を遂げたかを覗いてみたい。

 アントウェルペンも含めオランダやベルギーの低地地方が一様にそうであるように、港は時を経て土砂が溜り機能しなくなっていった。大貿易港としての重要性はアントウェルペンに奪われたが、それ以前の、通商が活性化していた時代がブルッヘの繁栄を生み出していた。ちなみに、私がドイツ、オランダ、ベルギーで二週間以上かけて買い集めた五千枚から一万枚に及ぶレコードは、150キロ北にあるロッテルダム港で船積みされる。
 いつの世も権力者は利益に群がるもので、ブルッヘの豊かな毛織物産業がこの町の命運を左右した。十三世紀末、歴史に特筆されるフランドル問題が起こる。フランドルの南に接するフランスが最初にブルッヘの富に食指を伸ばした。経済力に勝るフランドルではブルッヘ、ヘントなどが都市同盟を結びフランス軍を破る。これは、金の拍車の付いた軍靴で騎乗した多くのフランス貴族が打倒され、彼らが身につけた拍車が戦場一面に散らばっていたことから、「金拍車の戦い」という洒落た名がついて歴史に残る。二十年近く小競り合いが続いた後、フランドル伯爵となったルイ一世は、こともあろうに親フランス政策に転じ、フランスを警戒し羊毛産業を死守する都市同盟と敵対した。
 ここに、フランドル内部では、領主ルイ一世と市民の間に軋轢が生じ、統治者はフランス寄り、市民はイングランド寄りの二重構造に発展する。そこを狙ったのは知恵者イングランド王エドワード三世であり、彼は大胆にもフランドルへの羊毛禁輸に踏み切る。これはイングランドの牧羊業にとっても輸出先が絶たれるので大きな打撃であっただろう。原料を調達できなくなって右往左往したフランドルの毛織物職人の一部は、エドワード三世の招きもあって、故郷に見切りをつけイングランドに渡り、毛織物産業の発展に寄与する。己の巧みな考えが図に当たり、正に漁夫の利を得たイングランドは、今日の優秀な毛織物産業の礎を築くのである。
 このような状況下、フランス軍の侵入を怖れていたフランドル市民にとって、エドワード三世は救世主に思われた。二重の勝利を手にして自信をつけたエドワード三世は、この好機を逃すまいとして、一三三七年、裕福なフランドル市民の後押しもあって、フランスに宣戦布告をした。さらに多くの要因もあるが、これが百年戦争の幕開けであり、ジャンヌ・ダルクの活躍を経て、明くる世紀の半ばまで続くことになる。

 簡単に言えば、フランス、イングランド、それにフランスを凌ぐ版図を誇っていたブルゴーニュが介入し、三つ巴の利権争いを続けたのが百年戦争であり、始まりはフランドルの富の奪い合いだった。つまり、ブルッヘという街は歴史的に極めて重要な意味を持っている。その後は相互の戦いや、支配者同士の婚姻による懐柔などが続き、十五世紀に入ってフランドルはブルゴーニュ公国に編入される。
 パリの南東、スイス寄りにあるディジョンはブルゴーニュ・ワインとマスタードの本場として知られる。ブルゴーニュ公の宮廷は最初この町にあったが、ブリュッセルに移され、ここに華やかな宮廷文化が花開く。これは、音楽史でも美術史でも特筆される。もちろん、ブルゴーニュ公国の一部となったブルッヘおよびその隣町ヘントでも、失われていなかった富を背景に多くの芸術家が集まった。次に絵画に目を向けてみよう。
 ブルッヘにやってきた巨匠ヤン・ファン・エイクは工房を構え、一四二五年にブルゴーニュ公に仕え、宮廷画家として励む一方、外交官としても重用されたという。この画家が得た報酬は並々ならぬもので、彼の力量がいかに高く優れていたものであったかを示すものである。ヤン・ファン・エイクを愛したブルゴーニュ公は、宮廷で特別の計らいをし、彼の息子の名付け親になったと言われる。ブルッヘの町を愛したこの画家は、宮廷のあるブリュッセルでなく、己のキャリアの最初を築いたブルッヘに骨を埋めた。
 ヤンの兄フーベルトも優れた画家であったが、彼はブルゴーニュ公の庇護を受けながらもブルッヘには住んでいないようだ。弟ヤンと共同で仕上げたとされる歴史的名画《神秘の仔羊》は隣町ヘントのシント・バーフ大聖堂にある。これを前にした時の感動を、私はどのように言い表したらよいだろう。幸い小一時間、人の出入りがほとんどない幸運な時を過ごせたことは、生涯忘れられないだろう。

 ペトルス・クリストゥスはブルッヘで親子ほど年の違うヤン・ファン・エイクの画房に加わり、数年後師匠の死によりそれを引き継いだ。彼の画業は国際的で、フィレンツェのメディチ家なども、その作品を購入している。ヤン・ファン・エイクの没後二十数年を経て、ドイツ生まれの大家ハンス・メムリンクがブルッヘに登場し、三十年に渡ってブルッヘで多くの傑作を生み出す。現在ブルッヘには宝物とも呼ぶべきメムリンクの傑作が残されている。メムリンクより三十歳ほど若いヘラルト・ダヴィットはメムリンクの死後ブルッヘを代表する画家となった。彼は、ディレク・バウツ、シント・ヤンスそしてメムリンクなどの画業を継ぎ、ブルッヘの名を高め、ここで亡くなった。
 十五世紀末にブルッヘ市民となったのがヤン・プロヴォスト。彼は巨匠シモン・マルミオンに見込まれ、マルミオンの死後、彼の未亡人と再婚、マルミオンの所領や相当な財産を相続したと言われる。ブルッヘにおける絵画遍歴はまだ続く。ライデンに生を受けたらしいとされているヘールトン・トット・シント・ヤンスの名も忘れられない。彼はブルッヘの写本挿絵師組合に属していたとされるが、惜しくも二十九歳で夭折した。
 さらに十六世紀初頭から活躍し、ブルッヘで亡くなっているアドリアーン・イーゼンブラントは、「ブルッヘ派の画家」と呼ばれているほどこの町と馴染みが深い。スペインのセゴヴィアにも彼の代表作が数多く残された。同じ頃ブルッヘにやってきてダヴィットに弟子入りしたのがアンブロジウス・ベンソン。彼は画家としての名誉ある地位「聖ルカ組合」の最高責任者となった。
 長々とブルッヘにおけるフランドル絵画について述べたが、まるでイタリア・ルネサンス期に匹敵するような画家群像である。事実、ブルッヘにはフィレンツェ・メディチ家の代理人が派遣され、名画の制作を依頼して数多くをフィレンツェに持ち込んでいる。だが、巨匠ヒューホー・ファン・デル・フースを最後として、フランドルの画家たちはイタリアに学ぶようになってゆく。有名なオランダ絵画に先立ってフランドル絵画の時代がいかに実り多かったかを、私はブルッヘに因んだ画家たちによって示したかった。

神秘の結婚
  メムリンクの作品 幼子イエスはアレクサンドリアの聖カテリナに結婚指輪を与えている。このような絵を『神秘の結婚』と呼ぶ。

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