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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第13回 2025年9月2日 ダルベール オペラ《低地》 オペラ《低地》は《低地地方》とも呼ばれている。舞台となったのはスペイン・ピレネーの高地とそれに囲まれた盆地である。「低地」とは、人が住めない高山地帯に対する、(時には大きな)集落のある山あいを指している。音楽は格調高く深遠な雰囲気を持っており、一面だけを取り上げてヴェリズモ・オペラの範疇に区分されることもあるが、これほど真面目に人間模様を掘り下げた作品は中々ない。本場ドイツを除けば今でも上演頻度は極めて少なく、愛好家は長いことフィリップス社録音のモノラル・レコードで親しんでいた。ところが、その魅力がやっと認識されたものか、最近になって数多くの録音で聴けるようになったし、映像も出回り始めたことは喜ばしい。 テーマは孤高の山に住む者と集落に住む俗人との確執である。カスパール・ダヴィッド・フリ-ドリヒの絵に、雲間の峰に毅然として立つ男の姿が描かれた名画があるが、主人公のペードロはそれに似る。のどかな集落を眼下に見下ろしながらも、彼は牧人として何一つ不満の無い生活を送っており、雇い主のセバスティアーノに対しても極めて従順である。後にペードロは悲劇の最中に漏らす、「あの高い山から俺は下りてきた。何不自由なく平和に暮らしていたのに」と。この高山まで足を向ける者など誰もいない中で、彼は(恐らく若い時から)人に会うのはせいぜい六カ月に一度といったものだが、年のせいか、最近になって結婚を夢見ている。 ペードロは一度だけ命を懸けた経験があった。大切な羊が狼の餌食となった時だ。一途な彼は尻込みもせずに狼と大格闘を演じ、深手を負いながらも倒した。それを認めた雇い主セバスティアーノは彼の勇敢さを褒め称え、ターレル銀貨を一枚与え、身に過ぎた褒美と感じたペードロはお守りのように大切にして、肌身離さず持っていた。その出来事は、ペードロの中に雇い主に対する忠誠心を育んだ。純朴な青年ペードロが雇い主に抱いているこうした思いは物語の流れを把握する上で極めて大切な鍵となる。 ドイツの海は北の外れに僅かしかなく、しかも人を拒む厳しさがあり、日本人が愛する命の源としての海の姿は見られない。民族の心はその分だけ森や山の神秘や高貴さに向けられる。《魔弾の射手》での隠者、そして《さまよえるオランダ人》のエリックなどは山に生きる典型的な人間であり、《低地》の主人公であるペードロ的部分を共有する。そのように純粋な山男が享楽的な平地に住む男といざこざを起こすのは、決して珍しいことではなかっただろう。 以前から心を占めていたこのオペラを私が初めて観たのは、二〇〇七年のベルリン・ドイツ・オペラの舞台だった。演出家のローランド・シュワプは「狼」という存在を持ち込んで山男を象徴する。人間社会とは同化できない狼が結局は人間を噛み殺して山に戻るという着眼は評価できる。幕が上がって白一色の山の雰囲気が伝わってきた時、見事に主題をとらえた演出に頷き、後半になって、またもやフリードリヒの絵画作品《氷塊》を思わせるセットが現れた時、この演出家が特色ある風景を駆使して、巧みにドイツ人の精神性を勘定に入れていることに感心した。 一方、合唱団の使い方は余りに凝り過ぎていた。作劇上、合唱はギリシャ劇のコロス的かつ傍観者的立場で描かれる。ここではまるで余所者ペードロに牙を剥く集団に見える。地の底から這い出してきたような特異なメーキャップと、黒づくめの衣装で奇妙な動きを繰り返す。まるで、高地の「狼」に対して、これらは無分別な平地の猛犬の集団に見える。すなわち、犬たちの狩猟本能が狼であるペードロを拒絶するのである。発想はユニークだが度を超すとギャップを生む。それでも、演出家はエスカレートさせる。 最近のドイツの演出を見るとバウハウス思想の反映が見られる。「われわれは工芸家と芸術家との間に高慢な壁を作ろうとする階級的な自惚れを持たない。それらが一つになって新しい未来を作るのだ」という宣言文(一九一九年)の語るように、ドイツにはこうした社会主義的思考が定着している。ここが日本人の感覚との大きな違いであり、ギルド社会を過去に持つドイツだから、社会主義や全体主義への温床が育っていた。わが国で大切にされている温故知新と言う知恵はドイツでは少々バランスを失っており、新奇が発見を生むことを至上としているように感ずることが多い。絵画や彫刻、そして映画に見られる表現主義にもその影は漂っている。だが、私が観たベルリンの《低地》では、最後の場面に犬の死体が累々と横たわっていることで大きなブーイングを湧き起こした。 舞台はピレネー山中の谷間。われわれの感覚では盆地だが、ここでは「低地」と呼ぶ。すなわち山間部で羊番をして孤独に暮らすペードロは低地のセバスティアーノに雇われている。この純粋な山男は楽劇《パルシファル》の主人公と並ぶほど無垢である。ある日、人の訪れぬ高山に、雇い主のセバスティアーノが見知らぬ女を連れて昇ってくる。ペードロはその女マルタに一目惚れをする。雇い主はペードロの嫁を連れてきたのだと述べる。驚くペードロを従え、皆は山を下りる。 その女マルタは名うての金持ちであるセバスティアーノの情婦だった。実は、破産寸前になったセバスティアーノが、窮余の策として資産家の娘との婚約を取り付け、邪魔になったマルタをペードロに押し付けようという魂胆だった。周りのものはそれを知っているが、護身のため口をつぐんでいる。かくして、ペードロとマルタは結婚させられるが、事もあろうにマルタは新郎ペードロを拒否し、情夫であり続けるという約束通りセバスティアーノを部屋に忍び込ませることを承諾する。この部分は、《フィガロの結婚》での初夜権に似る。 隠者的存在のトンマーゾという老人が登場。状況を危惧した彼は、セバスティアーノの行状を婚約相手である金持ちに告げ、約束を反故にさせる。それを知ったセバスティアーノは自暴自棄になる。この経緯は《イエヌーファ》のシュテヴァと同じで、この悪徳雇い主もまた己の狡猾さが命取りになる。この場面のトンマーゾ老人は《魔弾の射手》の隠者と同じ存在だ。一方、次第にペードロの人となりに惹かれていったマルタは、トンマーゾの言葉で目を開かされ、己の立場を夫に告白する。怒りに燃えたペードロは窮したセバスティアーノを絞め殺す。集まった民衆は皆状況を理解し、ペードロとマルタは手を携えて山に逃れる。 山中で仲間だけの暮らしをするジプシー群団を描いた《イル・トロヴァトーレ》。この最後に近い場面でアズチェーナと息子マンリーコは二重唱『われらの山に』を歌う。これもまた、ペードロの心境と共通する。また、《魔笛》の三人の侍女の如き狂言回しで、三人の聞きたがり、知りたがり屋のおばさんが登場するし、全体は殺伐とした場面が多い中で、ヌーリというマルタの小間使いが清純な香りを添える。まるで天使の如き娘で、彼女には《トウーランドット》のリュウのイメージがある。 私は故意に多くのオペラを引き合いに出したが、劇作とは多かれ少なかれ同工異曲、多くのヒントが過去あるいは同時代の作品に隠されていることを示したかった。それらの是非を問うものではなく、似たようなアイディアに巧みに新しい衣装を着せることで評価が為されるのである。言ってみれば源流は普遍的なギリシャ劇にあり、人の姿や心、そして行動の基本の中で、喜怒哀楽の創作に個性的な表現が加えられていくのである。 さて、ブーイングについて続けよう。私の観たステージで、マルタ役のソプラノ歌手はオルトルート(《ローエングリン》での魔性の女)のような妖艶さで歌った。ブリュンヒルデを歌ってさえ余りある強力な声量を持っていたが、それを叫ぶように張り上げたかと思うや急に弱まり、まるでアミーバのように正体不明な硬軟の変化がくどいほどつけられ、極めて聴き辛い歌い方で通された。私はその声を不愉快な思いで聴いていたが、カーテンコールでは彼女に向けて多数のブーイングが飛んだ。私は声こそ上げなかったが、彼らに心から同感した。 ブーイングは滅多に出ない。物の本では、イタリアでは気に入らない出演者には卵やらトマトを投げつけると聞いたことがある。実際、私は一度だけマントヴァでのオペラ公演でトマトを浴びた歌手がそれきり姿を消し、結局は代役が歌ったのに出合っている。カリフォルニアのサンノゼでは、野次られた歌手がすごすごと舞台を降り、一時間後に代役が現れたという経験もある。気の毒な思いもするが、こうしたことは、ステージが歌手にとって真剣勝負の場であることを認識させる。ただ、これを必要悪といって片づけてよいかどうかは判断に苦しむ。 ブーイング飛び交う場に居合わせた時、私は決まってブーイングをした観客たちの思いが理解できる。ブラボーの拍手に同調するのは易しいが、ブーイングの声を飛ばす人たちは相当なオペラ通だと思われる。彼らは自分たちの砦を守るためでなく、オペラ上演への危機を感じてブーイングをする。その晩のソプラノは矯正できる資質を持っていたと思う。己の歌唱の不自然さを是正する機会を与えられたと認識して精進して欲しい。ブーイングに非難の目を向ける者もいるが、ブーイングする方も必死だ。時には諍いの起きることもあるが、互いの本気がそうさせるのだ。 |