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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第12回 2025年8月26日 幸運児、ベルナルト・ハイティンク 高校何年生の頃だったろう、書店に並んだ音楽雑誌の表紙に吸い込まれて思わず買った。それは若い指揮者のクローズ・アップ写真であり、特集が組まれていたかどうかは記憶に無い。世界有数のオーケストラであるアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者として、ベルナルト・ハイティンクという世界的にはほとんど無名の若者が抜擢されたという記事が掲載されており、私は貪って読んだ。当時、新聞紙上などでは世界の著名オーケストラの連載が盛んで、高等学校の図書館に並んだ諸新聞のそうした音楽記事に目を通すのは大きな楽しみだった。多かったのはオーケストラや演奏家に関するものであり、世界の十大オーケストラについての記事など、丸暗記したものだ。学業にもそれほど熱心だったら、ずっと優秀な人生を歩んでいたに違いない。 当時の世界的なオーケストラの多くはいずれも在任期間の長い名指揮者によって高いレベルが保たれていた。思い出してみれば、エルネスト・アンセルメが君臨していたからこそスイス・ロマンド管弦楽団は上位に数えられており、アムステルダム・コンセルトヘボウもまた名立たる指揮者たちによって揺るがぬ人気を誇っていた。そこに若干三十歳にして名誉に輝いたハイティンクの名は世界を駆け巡った。だが、その後調べてみれば、ハイティンクの前任者であるエドゥアルト・ヴァン・ベイヌムもまた同年齢で就任しており、さらにその前の巨匠、ヴィレム・メンゲルベルクは何と二十四歳で常任指揮者となった。若い指揮者が抜擢されるのはこの楽団の伝統だったのかも知れない。 確かに戦後十数年を経て、世界の音楽界も刷新され始めていた。若い才能が育ち、同じ頃、我が小澤征爾のベストセラー『ボクの音楽武者修行』に音楽好きは皆飛びついたものだ。常任指揮者就任に先立って、ハイティンクはコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮し、ドヴォルザークの《交響曲第7番》の録音によりレコード・デビューをする。その後のハイティンクにとってドヴォルザークは重要なレパートリーにはなっていないので、恐らくは、それまで常任指揮者をしていたオランダ放送フィルハーモニーで演奏をしていたのではないだろうか。このレコードはオランダ・フィリップス社によるもので、レコード・ラベル(盤の中央に貼られている作品や演奏家名の書かれた円形の紙)に、デザイン化された「HiFi」のロゴ・マークがあり、このロゴはレコード愛好家の垂涎の的となっている。クララ・ハスキルの演奏など特に入手が難しく、最近では演奏家を問わず希少度を増している。 オランダという国は、オペラ愛好家にとってはほとんど縁遠い。それはオランダの宗教(カルヴァン派)が関わっているらしいが、実際私も何度か足を運んだアムステルダムのオペラ劇場はコンセルトヘボウという音楽の殿堂とは比べようもないほど質素であり、客席に坐れば、どこかの中ホールにも及ばないような造りで、ヨーロッパの他の国々で感じる熱気はほとんど伝わってこない。こうしたお国柄を背景に、ハイティンクもオペラ演奏には距離を置いていたが、一九七九年、グラインドボーン音楽祭の音楽監督に就任し、オペラ演奏にも並ならぬ力量を示したことが認められ、十年と経たぬうちに名門コヴェントガーデン歌劇場に迎えられる。 かつてオットー・クレンペラーの重厚な演奏を愛したロンドンっ子は、ハイティンクの地味ながらもしっかりした造形を築き上げる指揮振りに魅せられ、新たな世紀を迎える頃は、イギリスの音楽界を牽引する者としての大きな評価を得ていたのである。その証として、紀元二〇〇〇年という記念すべき年のロイヤル・アルバート・ホールにおける「BBCプロムス」で、ハイティンクは何とベルリン・フィルハーモニック管弦楽団を率いて登場し、私は運良く二つのコンサートを聴くことができた。 最初に聴いたのはブルックナーの《交響曲第七番》だった。プログラムに掲載されたアンドリュー・フス氏の楽曲解説に私は啓発された。ブルックナーの音楽の内包する基本的な効果について多面的な診断を下している。まず「提示と再現」という見方。すなわち一度経験されたテーマが単純な形で(あるいは僅かに形を変えて)繰り返し再帰する。チェロやホルンによる黄金のトレモロ、ハープによる純粋なホ長調のアルペジョ。これらはヴァーグナーの《ラインの黄金》への前奏曲ともなった十九世紀後期の音楽語法であると結んでいる。確かに、ブルックナーの音楽の神秘は、単純でありながらも複雑であり、容易に見えていて難しい。いくつかのパターンを色分けして構造を詳らかにするのは困難ではないが、ダイナミークにおいて、装飾や楽器の取り扱いにおいて、または音楽そのものの密度において、たゆまぬ工夫が凝らされている。ハイティンクはそうした悲喜こもごもの起伏を表現しようと全霊を傾けていた。 翌晩のプログラムはR・シュトラウスの《ドン・キホーテ》で始まったが、メイン・プロはベートーヴェンの《交響曲第七番》。この作品の演奏にかけては世界一のオーケストラを前にしているのだという緊張感に身が引き締まる。ハイティンクは古典派の音楽に丁度良い振りの大きさが好ましく、ベルリン・フィルハーモニック管弦楽団の絶妙な弦楽器群のコントロールと、音量および色合いの加減を心得た管楽器が鳴り響いていく。 私が引き込まれたのは団員のコンビネーションの良さだ。全員が一本の糸で均質に操られているというものではない。呼吸の統一というか、誰の視線も同じものを感じさせる。他のオーケストラなら出番を待つときはよそ見をしていたり、ヴァイオリニストなら弓を遊ばせている者もよく見かける。だが、彼らは違う。出番のない時でも音楽の流れの中で没我の境地にいるように見えた。その中から生まれてくる隙の無い緊張感は凄い。これは、ハイティンクという指揮者ならではの楽団員の反応とも思われた。 人気の高い第二楽章のテーマは、二小節で一つの単位である。その二小節の後拍をハイティンクは心持ち力を抜かせる。弱めるというのではなく、ちょっと後ろに引くというか、大きな変化ではないのだが、すっと落とすのである。こうして生まれる効果は抜群であり、そこに独特な香りが漂う。ハイティンクはイン・テンポで進める。フレーズの結びも、経験上僅かにリタルダンドする箇所まで、パーンと次の場面に鮮やかに移っていく。それが、重くなりがちな作品を弱点から解放しているのかも知れない。 終楽章のタクトが下ろされるや、ただ事でない経験に出合えることはもはや疑いの余地がなかった。鳴らして燃えているのではなく、私たちの知るベートーヴェンの本質が実に久々に目の前で表現されていると言ったほうが良い。重厚で説得力のある音楽。この演奏はベルリン・フィルあってこそであると思っていた私の判断は次第に遠のき、ハイティンクの動きこそが感動を紡ぎ出しているように感じた。八千人収容のロイヤル・アルバート・ホールにはどよめきが起こった。 ロンドン公演から六年を経て、コンセルトヘボウ管弦楽団により再びブルックナーの《交響曲第七番》を聴いた。後で知ったことだが、二〇一九年のルツェルンにおける引退公演でも彼はヴィーン・フィルハーモニーを指揮してこの作品を取り上げたと言う。私は彼にとって掛け替えのない作品の演奏に二度も出合ったことに、改めて感謝した。この晩のアムステルダム演奏会もまた、この指揮者の高い水準を裏打ちするものであった。 上昇する分散和音による主題は楽譜に書かれた通りのメゾ・フォルテでしっかりした足取りをもって演奏され、余分な抑揚は一切なしに、健康的な雰囲気で音楽は進んでいく。この安定した表現は、他の指揮者に見られる様々な創意工夫をすべて虚飾と感じさせるほどの説得力がある。オーケストラのすべての楽団員もまたこの指揮者に並々ならぬ信頼を寄せており、一見穏やかな空気のみが支配しているように感じられるが、実は強い集中力によって揺るぎなくまとめ上げられているのだ。 ハイティンクの指示は音楽の自然な流れの中にすっと差し込んでいく光のように、こよなく調和し、決して行き過ぎない陰影を生み出す。強音と弱音の交差する部分はバランス感覚が一段と要求されるものだが、それには会場の優れた音響もプラスに働く。というよりも、コンセルトヘボウというホールの響きを知り尽くしたハイティンクが残響や減衰の特性を計算に入れぬことは無いだろうから、私の耳に入ってくる音は、全ての要素が程よく噛み合って生まれた至高の姿なのかも知れない。 このように深い人間性を伴った演奏であってもシンバルの部分はどうしても異質に聴こえる。ブルックナーの音楽にはどうしてこれほどシンバルが似合わないのだろうか。私の臨席には多弁な三十代のオランダ人男性がいた。彼は私が日本から来たことを知って関心を示し、終始私の表情を窺っていた。私はそれを意識しながらも、舞台から注意を逸らすことができなかった。教会オルガニストとして神に仕えたブルックナーの音楽の神髄は、ある意味で喧騒の俗世を離れたものだろう。そうだとすれば、効果を嫌ったハイティンクの表現は実に適切である。演奏が終わるや私は真っ先に立ち上がって拍手をし、それに気づいた多弁な男性もにやりとして腰を上げ、やがて会場は総立ちとなった。この日は珍しく妻と二人の友人が連れ立っていたので、深夜のレストランに入って祝杯を挙げた。 |