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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第8回 2025年7月29日 ロンドンの第九 このエセーは以前『ライブラリー通信』に掲載したことがありますが、ここに補筆訂正したものをご紹介いたします。 世に有名なヴィーン会議に至る三十年の間、ロンドンの音楽界でみるみる力をつけていった一人の男がいる。その名は、ヨハン・ペーター・ザロモン。ドイツのボンからやって来たこのヴァイオリンの名手は、コヴェントガーデンでデビュー演奏会をするや、ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティが革命のパリを逃れてロンドンに登場するまでの十年余り、ヴィルトゥオーゾとして君臨した。同時に彼は興行の面でも才覚を示し、当時パリで世界中の人気演奏家を集めていたコンセール・スピリテュエルの向こうを張り、ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで連続演奏会を開始する。ちなみにザロモンはこの頃、モーツァルトの《交響曲第四十一番》を『ジュピター』と名付けている。 そんな折、世界一の作曲家ハイドンが、エステルハージ侯の死去により宮廷楽長を辞し、少年時代を過ごしたヴィーンに移ったというニュースが流れた。ザロモンの頭にはロンドンで成功を勝ち得たヘンデルがあった。イギリス人は外来演奏家にはとても温かな目を向ける。自分にせよ、ヴィオッティにせよ、そして少し前のヨハン・クリスティアン・バッハは神のように崇められた。興行師ザロモンは時を置かずヴィーンに向けて出発した。 ザロモンはボンでベートーヴェンより二十五年早く生まれ、才能に恵まれ、十三歳にしてボンの宮廷楽団のヴァイオリン奏者となった。当時の楽長はベートーヴェンの祖父であり、当然、ベートーヴェン家とザロモン家は親しく交わった。ベートーヴェンが十歳になった頃、たゆまぬ精進のためにザロモンはロンドンに移り住んだ。少年ベートーヴェンの心には、輝かしい存在としてザロモンの姿が残されたに違いない。 興行師の面目を懸けたザロモンの誘いに、六十歳に届かんとするハイドンは腰を上げた。彼らの行動は速かった。モーツァルトも加わっていた取り巻きの人たちに手を振り、ハイドンが乗った馬車はヴィーンを後にして、ロンドンへ向かう途中ザロモンの故郷ボンに立ち寄った。二十歳を越えたばかりのベートーヴェンは突然の来客に驚いた。その昔、憧れの的だった懐かしいザロモンのみならず、尊敬する大作曲家ハイドンまでが目の前にいる。二人の旅行者はゆっくりする暇もなくベートーヴェンに再会を約束して馬車に乗った。 翌年、ロンドンでの大成功を土産に、ヴィーンへの帰途二人は再びボンに立ち寄った。ベートーヴェンは自作オラトリオをハイドンに披露。巨匠はこの若者をボンに埋もれさせることを潔しとしなかった。ベートーヴェンの弟子入りを認め、ヴィーンに出向くよう勧めた。ベートーヴェンはその年のうちにヴィーンに向かい生涯ボンには戻らないことになる。 瞬く間に名を成したベートーヴェンはヴィーンの寵児となった。だが、この当時世界はナポレオンという名の暗雲に包まれていた。ヨーロッパ中が混乱し、ナポレオンはいよいよヴィーンに兵を投じた。こんな時は音楽家も戦意高揚に協力しなければならない。そこでハイドンが作曲したのは《神よ、わが皇帝フランツを守り給え》という作品。後に《皇帝四重奏曲》の一部に使われ、やがてドイツ国歌となる名曲である。ハイドンはイギリスで歌われていた《神よ、国王を守り給え》(現イギリス国歌)に刺激されて作ったといわれる。ベートーヴェンもまたこの二曲の荘重な趣を気に入っていた。その頃のベートーヴェンの頭の中では、ある旋律が鳴り響いていた。《歓喜のテーマ》。それを作品として完成させたいという気持ちが、彼に《合唱幻想曲》を書かせた。ピアノが協奏曲風に取り扱われ、合唱も加わる不思議な作品である。これは明らかに大作《第九交響曲》の前触れとなっている。 一方、ロンドンではザロモンらの努力で、ロンドン・フィルハーモニック協会が創立された。ザロモンはボンで再会したベートーヴェンの情報から耳を離すことはなかった。少し前のハイドンの死に落胆していた彼は、若いベートーヴェンに大きな期待を寄せた。そんなところに、ベートーヴェン本人からの協力依頼がザロモンに届く。それは、自作のロンドンにおける出版への助力を願うものだったが、大家ハイドンの後継者として認められるほど成長した同郷の若者をロンドンに呼ぶ夢が、ザロモンの胸の中で膨らんだ。しかも、いまやロンドンには大きな才能に力を貸せるフィルハーモニック協会という後ろ盾もあるのだ。 ザロモン家同様、ボンにはベートーヴェン家と付き合いの深かったリース家があった。フランツ・アントン・リースはザロモンにヴァイオリンを教わり、十一歳にして宮廷楽団で弾いた天才。宮廷歌手であった父親の飲酒癖によりベートーヴェン一家が苦労した話は有名だが、手を差しのべたのはリース家だった。しかも、フランツはベートーヴェンにヴァイオリンを教えた。息子フェルディナント・リースもヴァイオリンやチェロの腕を磨き、十五歳にして音楽修行のためヴィーンへ行きベートーヴェンに弟子入りした。しばらくして、ナポレオンの侵略を恐れてヴィーンを離れたフェルディナントは戦火に包まれた全ヨーロッパを波乱の旅の末ロンドンに定住し、ベートーヴェンの音楽紹介に尽くすことになる。 ザロモンの思いがけない喜び。ボンでの教え子の息子フェルディナントがロンドンにやって来たのだ。しかも、彼の音楽の腕は極上である。翌年、早速ロンドン・デビュー演奏会を開かせ大成功に導き、同年イギリス女性とスピード結婚。間もなくヴィーン会議が始まらんとする時世である。世の中は再び平和になり秩序が回復されようとしていた。ザロモンの目の前に現れた力強い助太刀、フェルディナントはフィルハーモニック協会のディレクターに就任する。だが、こうしてベートーヴェンへの接近の準備が整いつつあった時、ザロモンは落馬事故の後遺症であっけなく命を落とした。恩人の訃報にベートーヴェンの落胆はいかに大きかったことか。八つの交響曲は既に創られていた。《第九交響曲》誕生の陰で、ザロモンの遺志を継いだロンドンのベートーヴェン崇拝者たちはいよいよ動き始める。 ザロモンを失ったベートーヴェンの嘆きを知ったフェルディナントは、恩師ベートーヴェンのロンドン招聘について、フィルハーモニック協会の期待を背負った。だが、興行師としての力は名うてのザロモンとは大きな隔たりがある。それでも、フィルハーモニック協会を通じてベートーヴェンに大交響曲の作曲依頼とロンドン招聘への動きを始めた。大いに乗り気になったベートーヴェンは来たる一八二二年、ロンドンに出向く意思を伝えた。 文化国家イギリスでのヘンデルの成功、ハイドンがロンドンで財を成したこと、そして恩人ザロモンが国王ジョージ三世の音楽の師であったことをベートーヴェンは知っていた。この頃のヴィーンが彼にとって決して居心地の良いものでなかったことも、ロンドン訪問を望んだ理由の一つである。新作交響曲の作曲を始めたベートーヴェンは、当然のようにロンドンの聴衆の好みを反映させた。だが折悪しく、フェルディナントがフィルハーモニック協会の内紛でディレクターを辞任した。ロンドンからの依頼が火をつけた《第九交響曲》はこうした経緯の下に生まれたにもかかわらず、ロンドン初演は夢と消えヴィーンで行われた。失意のフェルディナントは同じ年アーヘンで《第九》の指揮をして恩師に報い、ベートーヴェンの死後十年経って、巨匠の秘書を務めていたヴェーゲラーとの共著で《ベートーヴェンに関する覚え書き》を出版する。 フィルハーモニック協会は諦めず、ロンドンとベートーヴェンの深い関係は続く。ここで、リストに先立つ最高のピアニストとして称えられたイグナーツ・モシェレスが登場する。彼の演奏を聴いた若きシューマンはピアニストになる夢を断念したと言われる。また、メンデルスゾーンの死後ライプツィヒ音楽院院長を託された好人物でもあった。モシェレスはロンドンを離れたフェルディナントの無念を理解し、ヴィーンで交友を重ねていた尊敬すべきベートーヴェンの体力の衰えを知り、ロンドンで援助活動を展開し、招聘の話も振り出しから進めた。ベートーヴェンは再び乗り気になった。ベートーヴェンの心から、今度はロンドンのための新作《第十》が離れなくなった臨終の床にあっても、ベートーヴェンの頭の中を占めていた。ロンドンにいるモシェレスや友人シュトゥンプフに度々渡英の意思を伝えていたことは、この頃の会話帳や書簡に数多く残されている。 《第九》の有名な旋律は極めて簡単で子供にも容易に歌える。テーマだけを見れば、まるで滝廉太郎の《荒城の月》のように素朴である。ドイツでは一時、この曲を国歌にしようという声が上がったそうだ。ベートーヴェンはハイドンの《神よ、わが皇帝フランツを守り給え》をよく口ずさんでいたらしい。また、イギリス民謡の多くを編曲して残した。彼は簡素でありながら格調高いイギリス音楽を心から愛しており、大好きな作曲家がヘンデルであることを公言していたらしい。それを知ったハープ製作者でベートーヴェンお抱えの調律師でもあったシュトゥンプフが死期も近い彼に、楽譜『ヘンデル全集』を贈った。ベートーヴェンの大喜びした顔が眼に浮かぶ。 荘重さ、そして活気ある雰囲気とくればヘンデルであり、それは『歓喜のテーマ』と共通する。さらに、イギリス国歌や、後のエルガーなどの持つ祝典的な要素も感じさせる。それが、ベートーヴェン得意の編曲の技で巨大な姿に変容する。あの単純なテーマが形を変え積み重なり、雲が湧くように巨大化して行く。こうして辿っていくと、『歓喜のテーマ』には、かなり強いイギリス的なものを見出すことができる。やはりベートーヴェンは、イギリス人のためにこの作品を作り上げたのかも知れない。 |