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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第7回 2025年7月23日 ヴァーグナー《さまよえるオランダ人》 「生きることは喜びである」、そして「生きることは苦しみである」と言う、相反する言葉のいずれにも大方の人は理解を示すだろう。だが、「死ぬことは喜びである」、そして「生きることは苦しみである」と言い換えたらどうだろう。これに理解を示すことは困難であるに違いない。この「死ぬことは喜びである」がオペラ《さまよえるオランダ人》を貫くテーマとなる。「生きる」ことに意味を持たなくなれば、人間は死をも喜んで迎え入れることができる。今の医学で言う「植物人間」になったことを思えば、その時には喜んで死を選びたいと考える人は多いだろう。このオペラの場合は、波間の船という狭い空間の中で、生き続けることを余儀なくされた男に焦点を当てて進められる。 三十歳に前後してヴァーグナーが書いた《リエンツィ》《さまよえるオランダ人》そして《タンホイザー》は、すべてドレスデンで作曲され、その地の宮廷歌劇場で初演されている。いずれもタイトル・ロールは、大きく異なった性格を持ちながらも強い信念に裏付けられた男たちである。ローマの英雄リエンツィが逃亡先アヴィニョンを離れてローマに戻り、いったん政権を手にするも、初めは歓喜で迎えてくれた人民に結局討たれる話。常軌を逸し、悦楽に溺れたタンホイザー同様、オランダ人船長も二人に劣らず数奇な運命を辿る。 ヴァーグナーもまた己の生み出した作品の主人公に劣らず尋常ならざる思想を持ち、パリの革命がドレスデンに波及した暴動に加担し、ドレスデン宮廷指揮者という恵まれた地位を追われる。この三つの作品は、まだドイツ・ロマン主義オペラの香りが色濃く残っており、いわゆる「難解さ」は見せていない。同時に、後にヴァグネリズムと呼ばれて音楽界に多大な影響を及ぼす様式も目立ってはいない。そうしたことで、オペラ・ファンの中に「タンホイザーまでは親しめるけれど、ローエングリン以降はちょっと・・・・・・」と敬遠する向きが多いのも事実だ。 オランダ東インド会社が設立されて一世紀以上が過ぎ、破竹の勢いで巨万の富を築き上げたこの国には傲慢不遜な風潮が漲っていったという設定の下、ドイツ人ハイネはこの物語を綴った。底辺には多くの伝説や類型もあったようだが、文学的才能にも長けていたヴァーグナーはそれを脚色して、片や「黄泉の国に足を踏み入れた人間」オランダ船船長とその部下たち、片やノルウェイ船の船長とその娘を取り巻く生命力旺盛な人々を対照的に描いた。その中で一人、娘ゼンタだけは犠牲的精神で心はオランダ船船長に向けられている。 音楽はこれら二つの群像にそれぞれの個性を与え、全体を俯瞰するかの序曲に始まって説明的に進められる。オランダ船船長は神を冒涜した罪で、一生海原をさまようことを運命づけられている。例え暴風雨にあっても船は決して難破しない。乗組員を含め誰も年を取らない。言い換えれば、未来永劫、単調な船の中で生き続けなければならないのだ。 こうしたパラドックスに身を置いた船長には一縷の望みがあった。七年に一度与えられる上陸の機会に、己に一途な愛を捧げる女性が現れれば神の戒めは解かれるという「お告げ」である。果たして、ある港に停泊した時、船長の願いは実現する。オランダ船の話は幽霊船物語として方々の港に知れ渡っていた。勿論「お告げ」については誰も知らないのだが、オランダ船が沖合に停泊したのを見た他船の船長ダーラントは、幽霊船とも知らず、嵐を避けて付近に錨を下ろし幽霊船船長と会う。その船長から莫大な財宝を見せられたダーラントはオランダ船を誘導して故郷の港に辿り着く。 ダーラント船長の帰りを待つ家では、娘ゼンタが絵に描かれたオランダ人船長を観ている。彼女は幼いころから話に聞いているこの男の数奇な運命に惹かれ、操を捧げることを決めていた。童話的なストーリーであるが、ヴァーグナーのオペラは《リエンツィ》を除けばすべて童話である。そこに、オランダ人を伴った父ダーラントが戻ってきて、娘ゼンタは魂を奪われる。勿論オランダ人も神の戒めを解く女性が現れたと確信する。 だが、ゼンタは少し前までエリックと言う猟師と仲睦まじかった。ゼンタの変化を知ったエリックはオランダ人に嫉妬する。それを見てゼンタの愛を信じきれなくなったオランダ人は幽霊船に戻り出港する。気付いたゼンタは後を追い岸壁から身を投げる。神から死の戒めを解かれたオランダ船は望み通り海中に沈み、海辺に集まった群衆には手を携えたオランダ人とゼンタの昇天する姿が見える。 ヴァーグナーは己の私生活とは裏腹に、自作を書くに当たって、汚れない乙女の姿を描いた。名作の中では、《タンホイザー》でのエリーザベトによる贖罪、《ローエングリン》ではエルザの悲恋、《トリスタンとイゾルデ》の浄化されたイゾルデの死など挙げれば十分だろう。これにベートーヴェンの《フィデリオ》におけるレオノーレに象徴される献身的な愛を加えれば、ドイツ人の古い恋愛観が窺い知れる。 ヴァーグナーの作品解釈は日々変化している。しかしながら、それを進化とは呼べない。何故なら、多くの《ニーベルングの指輪》をステージに観た経験を持つ私が、シアトル・オペラで観た時代錯誤と思われるほど古典的な舞台に出合った時、それまでにない新鮮な感動を受けたからである。ヴィーラントもレンネルトも、そしてフリードリヒも、多くの賛同者を得る卓抜した演出を世に送った。だが、越えることのできない決定的な解釈が生まれれば、その時点で作品は死を迎えるのではないだろうか。 人は何にでも最大の栄誉を与えたがる。決定的な名演奏だとか、今後これ以上のものは決して生まれないだろうとかの言葉を無暗に使う。何と傲慢な態度だろう。芸術やスポーツ、そして人の生き方に結論が出たら、その時点で歴史の針は止まってしまうと知るべきだ。到達された高みを越えるということは感覚的なもので、それは時代性や環境、その他多くの「時と場合」によって左右される。時代は明らかに人の考えを変える。進歩は後退と共にあるのかも知れない。 ヴァーグナー作品の中で《さまよえるオランダ人》の上演は極めて多い。取り分け暗いイメージに包まれたこのオペラが何故それほど親しまれるのか理解に苦しむ。それでいて、このオペラほど旧態依然とした演出の多いものは他に無い。長い楽劇《ニーベルングの指輪》四部作が手を変え品を変えて上演されるのとは比較にならない。ヴァーグナー自身、少しでも暗さを排除する努力はしている。エリックや舵取りに明るく響くテノールを起用したのがそれである。だが二人はあくまでも脇役であり、全体の雰囲気は常に暗く覆われる。そこで私は、この作品に明るさを加えた上演例を探してみたい。 船乗りの帰りを待つ留守宅で最も嬉しい日は、船が帰港した時だろう。これを演出するには、女性たちの喜びを増幅させれば良い。糸紡ぎをしながら歌う女性たちが揃いの可愛らしいコスチュームで登場したのはフランクフルトでの公演であり、民家などが童話的イメージで作られて明るさを添えていた。これは、決して異質なことではなく、暗いイメージが当然という意識の罷り通っている方がずっと可笑しいのだ。 もっと開放的な明るさを加えた舞台に出会ったのはチューリヒだった。ルト・ベルクハウスという演出家は、ゼンタの「待つ」という部分に焦点を当て、窓の外に海を設定し、思いを寄せるゼンタが室内から眺めやるという逆転の発想が見られた。ゼンタに内在する希望と憧れが海に向けて発せられるというストーリー展開に沿いながらも、陰鬱さを取り払う大胆な効果を生んだ。しかも、これまで知っているアニア・シリアやデボラ・ヴォイトと大きく異なり、十分な声量を持ちながら明るく澄んだ色合いを持ったアンネ・シュヴァネヴィルムスというソプラノの歌や演技はひときわ映えて、ゼンタの印象を覆した。 また、この時の演出では、窓を使ったためにオランダ人の肖像画は無く、オランダ人の上着と帽子が置いてあり、ゼンタはそれを狂ったように抱き締める。さらに面白いのはゼンタが身を躍らせた後、父親ダーラントは娘が残した着衣を抱き締め、前の場面と呼応させていた。しかも、下りた幕の前に、娘を失ったダーラントの嘆き悲しむ姿がクローズ・アップされ、多くの観客の目には、その姿がジルダの亡骸を抱き締めるリゴレットと二重写しになったことだろう。 違った意味で明るい舞台が創られたことがある。マインツという小さな町でのことだ。ちなみに私は、大劇場よりも田舎の小劇場での上演の方が好きだ。確かに演奏レベルは及ばないが、ほとんどの場合、小劇場の方がステージからの熱気がいっそう伝わってくるし、客席の親しみやすい雰囲気が良い。これは、互いに見知った人の多いことによるのだろう。さて、明るさはオランダ人とゼンタの服装にあった。それは共に白い結婚衣装だった。ストーリー上そぐわない部分もあるが、中々気の利いた演出であると思った。 当初よりこの時の演出家は明るさを意識しており、例えば糸紡ぎの場面では、前景から残っていた水夫たちのところに女たちが登場して、仲睦まじく糸を紡ぐ。しかも、男女それぞれが対になっているのだ。こうした雰囲気が全編にわたって通され、作品は全く印象を変えてしまった。しかも、群衆場面を少しでも長く伸ばすことによって、ステージが賑わいを増し、その分だけ暗さが減少する。これは、小劇場なればこその思い切った演出とも思われた。 |