| 仙台レコードライブラリー(直輸入・中古レコード専門店です) |
|
エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第6回 2025年7月15日 『聴きたい!』 オギンスキ《祖国よ、さらば》 ポーランド国民主義音楽の祖として愛されるモニューシコのオペラ《幽霊屋敷》の第三幕で、仕掛け時計からオルゴールのような音色で美しい旋律が聞こえてくる。断片的に繰り返される音楽に興味を持って調べたのが、オギンスキという作曲家との出会いだった。それが、ポロネーズ《祖国よ、さらば》という作品であることはすぐに分かった。オペラでは恐らくステージの脇か後方で小アンサンブルによって奏されるようだが、きわめて印象的なメロディーについて多くを知るのは思いの外容易だった。 この珍しいオペラを聴く切っ掛けになったのは、ポーランドの神話学者マルチンと知り合ったことによる。トルンという街にあるコペルニクス大学(同郷の偉人の名をとった)で教鞭をとる彼がわが家を訪ねて来るというので、俄か仕立てでポーランドの音楽について資料をあさり、彼の勧めでポーランドの民族オペラを聴き始めた。勿論彼からも多くのアドヴァイスの他、ポーランドで出版されている全二冊のオペラ解説辞典も贈っていただいたが、文字が読めず手も足も出ない。誰もがそうであるように、初めはモニューシコの《ハルカ》を何度か聴き、次いで《幽霊屋敷》に移った。後になって《祖国よ、さらば》の話を出したら、ポーランドでは特別に親しまれていると教わった。 何でも楽譜を手にしなければ収まらない私だが、この作品のピアノ譜は難なく見つかった。技巧的な部分は無く、子どものレッスン用としても広く使われているという。アコーディオンにいささか心得のある私は、ピアノ譜を見ながら左手のコードを適当にアレンジして弾いてみた。哀愁を含んだメロディーはこの楽器に相応しく、大好きなレパートリーになった。しばらくして、わが家を訪れたマルチンを囲んだ席で拙い演奏を披露したら、彼は思いがけなく大喜びしてくれた。後で聞いた話だが、目頭が熱くなったという。遠い異国で、しかも大好きな日本で祖国の心に触れたことに感激したようだ。 この音楽はオーケストラを始め多くの編曲がある。クラシックではモシュコウスキによるピアノ連弾用編曲が親しまれている。感動的な旋律が好まれてジャンルを問わず、ポピュラー音楽でも数えきれない。それらは作品の雰囲気を保ちつつ、メロディー・ラインを変えるなど細かな部分の編曲が目立つ。特にムード音楽的編曲は楽器を問わず種々出回っているし、先の《幽霊屋敷》で借用されたメロディーもメルヘン風な雰囲気を醸し出していた。どのような楽器であれ編成であれ、旋律線を辿れば、憂いに満ち叙情的気分がひとりでに生まれてくるところが普及した背景にあるのだろう。 ミハウ・クレオファス・オギンスキが生きた時代はポーランドの歴史において一つの動乱期にあり、一七六五年、彼は今で言うリトアニアに生まれている。詳しいことは研究者に譲るとして、当時は隣のポーランドと共同体であり、彼が六歳の時リトアニアはロシアに、そしてポーランドはプロイセンに分割された。その後、オーストリアも加わって分割が繰り返され、この作品を書いた翌年をもって、ポーランドとリトアニアの名は地図から消える。政治家としては大蔵卿を務め、外交官としても有能だったオギンスキはそうした状況に心を痛め、アマチュア作曲家ながらも、多くのポロネーズを始めとする作品を残した。 オギンスキのポロネーズは、半世紀近く遅れて登場したショパンにも愛されたに違いない。ポーランド人でこの曲に愛着を感じない人はいないだろう。だが、ショパンのポロネーズは極めて技巧的であり、芸術的な高みにある。その点、オギンスキのそれは気品を漂わせながらも庶民的である。これは、題名から取れるように愛国心に根差すものであり、ポロネーズという象徴的な様式に郷愁を滲ませたものと言えよう。 チェコには「ポルカ」という民族舞踊があり、農村部などで普及した後に、多くの軽音楽の形態で使われていった。これは、語源から隣国ポーランドでの発祥を指摘する向きも多かったが、今では否定されている。面白いのは、ポーランド語とチェコ語は驚くほど似ていることだ。標準語と関西弁の違いしかない、とも言われている。そんなところから、チェコで人気のあったポルカのポーランド起源説が生まれたのではなかろうか。 ポルカは軽快なリズム感と早いテンポからハンガリーのチャルダーシュの後半に似ている。群舞の場合もあるようだが、ソロの方が多くみられる。ポロネーズは群舞が普及している。洗練されたショパンやオギンスキの叙情的作品は舞踊音楽として使われることは少ないが、本来の形で多用したのはチャイコフスキーである。得意のバレエ音楽では山のように残されているが、私はオペラ《エウゲニ・オネーギン》で登場する二つのポロネーズの個性の違いが好きだ。一つは田舎の舞踏会における土臭さが漂う音楽、そしてもう一つは公爵邸で繰り広げられ、紳士淑女によって踊られる華やかな雰囲気を持つ群舞だ。場面に応じた、チャイコフスキーの見事な描き分けに感心する。 十七世紀初頭の史実を描いたムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》では、ロシア皇帝ボリスへの反逆軍がポーランドに援軍を求める場面がある。勇猛なポーランド兵の存在がロシアをも脅かす存在として扱われ、ロシアを征服して正教をカトリック教に改宗させようという強い意志まで覗かせる。そこまでは行かずとも、何度も外国の支配に翻弄されたこの国にはしたたかな反骨精神が生まれ、ポーランド魂とでも呼ぶべき意志の強さは、遠く映画監督のアンジェイ・ワイダまで及んでいる。ついでだが、ワイダはその作品『灰とダイヤモンド』の中でこの曲《祖国よ、さらば》を使っている。 そうした中で、ポーランド国歌もまた長い間オギンスキの作曲であると思われてきたが、最近では否定されている。原曲は軍歌であり、一七九六年、《祖国よ、さらば》の二年後に歌われ始めた。当時のナポレオンを英雄と称え、分割の憂き目にあった祖国への思いが歌われており、オギンスキがナポレオンに捧げたオペラを作曲していたので結びつけられたのかも知れないし、彼がその頃行進曲なども書いていたことにもよるだろう。だが、それ以上に《祖国よ、さらば》の作曲家への愛情がポーランド国民感情に訴えかけ、国歌の最もふさわしい作曲者としてオギンスキに栄誉を授けたと考えても頷ける。 還暦も近くなったオギンスキは美術の都フィレンツェに居を移し生涯を終える。晩年の十年余りをフィレンツェで暮らした理由は分からないが、政治の世界の殺伐とした毎日から離れたかったのかも知れないし、ルネサンスの芸術品に溢れたこの町で余生を送りたかったのかも知れない。一方のフィレンツェもまた、政治家であると共に優れた芸術家でもあったこの男を高く評価し、遺体は歴史に名を残した偉人たちの眠る、アルノ川沿いサンタ・クローチェ教会の栄誉ある墓所に安置した。ガリレオ・ガリレイ、ニコロ・マキャヴェッリそしてジョアッキーノ・ロッシーニなどの墓と共にバジリカにあって、その思いは遠いポーランドに飛んでいることだろう。 この作品は初期ロマン派の扉を開くものとしての重要性も持っている。ヴェーバーはまだ十歳にもなっておらず、シューベルトも生まれていない時代に、これほど感傷的な作品は極めて珍しい。そのような目で見るとこの音楽は、ドイツ・ロマン派よりもイタリアの開放的な音楽の中に見られるペーソスに近づいているように思われる。若き日にジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティから受けたヴァイオリンのレッスンが、影響を与えているのかもしれない。 ハープシコードによる古楽復興の元祖として名高いヴァンダ・ランドフスカは同郷の作曲家によるこのポロネーズを心から愛した。彼女の演奏は力強く曖昧さを排除したもので、自分で設計にも関与したというプレイエル社の二段鍵盤ハープシコードを演奏して多くの名曲を録音した。それは極めて熱いポーランド魂に貫かれたもので、この作品の持つ一面を見事にとらえている。しかしながら、思いを込める余り、多くのアレンジが認められ、オリジナルの姿を伝えていないように思われる。いや、そういう私も、この曲の録音は多すぎて原曲については判断がつかない。 オギンスキが《祖国よ、さらば》を作曲した頃、ピアノという楽器は産声を上げたばかりだった。ベートーヴェンが生まれる二年前の一七六八年、ヨハン・クリスチャン・バッハが箱型ピアノによりロンドンで初めての演奏会をし、さらに十数年を経て最初のグランド・ピアノが登場する。つまり、その時代にあって愛好家に支持されていたのはハープシコードであり、ピアノは実験的に使用される段階だった。そうした背景から、この作品はハープシコード作品として誕生したと私は思う。そうであれば、楽器の特性から多くの装飾音が書き込まれていることだろう。 私はレコードの存在しか知らないが、ヴィーンのKKM社から発売された「ポーランド音楽集」で、ワルシャワ生まれのヴラディスワフ・クロシエヴィツのハープシコードによる演奏は、最も原曲に近いのではないかと思う。楽器の特性を大切にしながら弾いており、録音の良さによるものか、鮮明で輝かしい音がする。同時に、繊細さも失わず中間部に出てくるリズムを強烈に打ち付ける部分も収まりが良くバランスを崩さない。この演奏を聴くと、正にロマン派音楽の夜明けを思わす曲想に改めて感じ入る。 |