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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第4回 2025年7月1日 『観たい!』 チャイコフスキー《スペードの女王》 このオペラはプーシキンならではの役作りが成され、登場人物はそれぞれに際立った個性を持っているので、そこを探ってみたい。オペラのストーリーは単純である。登場する貴族や将校など、男たちは誰もがカード賭博に明け暮れており、主人公ゲルマンの友人であるトムスキー伯爵は仲間に伝説的逸話を聞かせる。この地の有力な伯爵夫人は今でこそ年老いたが、かつてはパリの社交界で『モスクワのヴィーナス』と呼ばれ、男たちに取り巻かれて優雅に暮らしていた。彼女の魅力に惹かれたある伯爵が、賭博必勝の手を授けるのと引き換えに、彼女と一夜を過ごした。ご利益あって、翌日勝ち続けて大金を手にし、調子に乗った彼女はある貴公子に再び秘密を教え勝負に勝たせる。 その夜、亡霊が現れて彼女に告げる。「カードの秘密を知ろうとする三人目の男は、お前を死に至らしめるだろう」と。恐れをなした女は今なお人には秘密を教えていない。その話を耳に挟んだゲルマンは、以前から見染めていたリーザが伯爵夫人の孫娘であると知り、彼女に愛を迫ると共に老婆に近づく手立てを得ようとする。既に婚約していたリーザだが、ゲルマンの熱烈な告白にほだされて彼の愛を受け入れる。晩餐会の席で、リーザは人目を忍んでゲルマンに伯爵夫人の部屋の鍵を渡す。その夜、忍び込んだゲルマンは椅子にもたれて仮眠している伯爵夫人に近づく。 妙な気配で目を覚ました伯爵夫人は、秘密を問うゲルマンを拒絶する。強要するゲルマンは思わず銃を向けるが、驚いた伯爵夫人は発作で息絶え、物音に気付いて現れたリーザに、自分は殺していないと言い捨てるやゲルマンは立ち去る。家に戻り、部屋で一人悶々とするゲルマンの前に伯爵夫人の亡霊が現れ(これはパリ時代に夫人の前に現れた亡霊と呼応させている)ゲルマンにカードの秘密を教える。「勝ち札は三、七、そしてエース」の順だと。 喜び勇んだゲルマンはリーザの下に走るや、取りすがるリーザを突き放して賭博場に向かう。恋人の打って変わった態度に、自分への愛が冷めたに違いないと失望したリーザは川に身を投げる。盛り上がっている賭博場に現れたゲルマンは大金を賭けて見事に勝つ。二度目にはそのすべてを賭けて再び勝つ。巨額の掛け金に、もはや受けて立つ者は居ない。そこに、リーザの婚約者だった公爵が名乗りを上げる。勝負が始まるや、ゲルマンが手にしたのは亡霊が告げた「エース」ではなく「スペードの女王」だった。悪魔の罠にはまったと悟ったゲルマンは、狂気の沙汰になってピストル自殺をする。幕。 プーシキンの生み出した主人公ゲルマンの病的な側面をチャイコフスキーは一層濃厚に描き上げた。この精神を犯されたいかにもロシア文学に無くてはならぬ登場人物は、オペラの中でほとんど出ずっぱりで激しい感情の起伏を見せる。このオペラの成功如何はゲルマン役一つによって決まるだろう。例えばプロコフィエフのオペラ《賭博者》のテノールは自己陶酔型であるが、典型的な自己中心型のキャラクターであるゲルマンは常に身勝手な行動をとり続け、正当化できる部分は全くない。 チャイコフスキーは私の調べた限りでは生涯に二十八回もヨーロッパ旅行をした男だが、ロシアから近いドイツよりもフランスを好んでいた。ナポレオン戦争の苦い経験を持ちながらも、ドイツを飛び越えてフランス文化を享受していたロシア人は多かったようだ。いずれにせよ、公爵という最高位の婚約者から女を奪い、権力を失っていない伯爵夫人から秘密を聴き出し、狙ったものは次々と手に入れたゲルマンであったが、僅かに他人への配慮を見せても、結局は己の野心に向かって突き進み、破滅に向かうのである。 ここまで明確な性格を持った役柄はむしろ演じやすい。声の威力に任せて歌っても、少々荒っぽくても、それらはゲルマンの性格の表現として外れてはいない。言い方は悪いが破れかぶれでも通用する珍しい役である。ウラディーミル・ガルージンは良い例だ。映像で観た中に、まるで《エフゲニ・オネーギン》のレンスキーのようなリリック・テナーが歌ったものがあったが、不思議なもので、それも返って内面的効果が感じられたものだ。プロローグ的で説明的でもある第一幕第一場では、ゲルマンに人目を避ける行動をとらせるものの、音楽の底にはこの男の心の動きがしっかりと流れている。この場面こそゲルマンの心象表現が必要とされる。 私が経験した《スペードの女王》でのゲルマン役については概ね恵まれており満足している。特に伯爵夫人の部屋への侵入から幕切れまで続く緊張感が保たれれば、上演は成功することが多い。ここで、賭博シーンと言えば《椿姫》が有名だ。ヴェルディはカードを切る音まで克明に表現し、アルフレードの内面を巧みに音化して見せたが、《スペードの女王》では、速いテンポで悲劇に向かって突っ走るだけで、細やかな動きは見せない。チャイコフスキーの音楽は通常畳みかけ、うねるように音楽が高まった後、一気に破滅になだれ込む書法が多いのだが、この作品では締めくくりの造形に不足があるように私は感じている。 オペラ・ファンなら誰でも《エウゲニ・オネーギン》のタチャーナと、ここでのリーザを比べたくなるだろう。だが、比べるなら『手紙のアリア』を歌うまでのタチャーナであり、公爵夫人になってからの彼女を比べてはいけない。同じ年齢の二人の比較であれば、共に恋し易く傷つき易いロマンスに憧れる乙女の姿が見えてくる。同時に恋をした相手にも大きな違いがある。オネーギンは処世術を心得た男であり悩めるタチャーナを諫めるが、ゲルマンは怖れるリーザに激白して恋心を吐露する。タチャーナは長い年月を掛けて女として成熟する素地を持っており、リーザは強烈な存在に我を忘れて恋焦がれ、己を御すことが出来ず、哀れにも死を選ぶのである。《戦争と平和》のナターシャと並ぶほど、女の鏡として称えられるタチャーナを生み出したプーシキンがリーザに課した運命はあまりに酷い。 リーザが清楚に描かれるほどゲルマンの恋心は激しく動くのだが、大好きな歌手カリタ・マッティラが胸元も白い足も露わにしてセックス・アピールを強く表現した演出に出合った時は、直視できなかった。そのような演出は歌唱にも反映され、リーザは知性と貞淑さを信条とする貴族らしさも失った。リーザとその親友ポリーナによる二重唱は、チャイコフスキーが《フィガロの結婚》の中の天国的な美しさを持った名曲を意識して歌い上げたものだが、ガリーナ・ゴルチャコーヴァとオルガ・ボロディナという実力の伯仲した二人の歌手による名唱は今でも心に残っている。ゴルチャコーヴァのリーザは田舎娘風であったが、返ってこの役の持っている迂闊な側面が目立って、ドラマは面白くなった。この作品ではチャイコフスキーの憂鬱が伝わってくる場面は少ないのだが、リーザの親友であるポリーナの歌うロマンスが唯一のものだろう。 伯爵夫人はカードの秘密を握る正にキー・パーソンであり、そのおぞましい姿が作品の怪奇な面を増幅する。極めて特徴的な役柄であり、特に寝室の場面では密度の濃い綿々とした底知れない暗い雰囲気が漂うが、豊かなキャリアを持った歌手によって演じられれば、他のオペラには求め難い感動を得ることがある。顔はメークでごまかせても、声を繕うことは出来ない。そこで、キャリアの豊富な過去のプリマ・ドンナたちにとって、老婆役は願ってもない出番になる。 私は何人かの古き大スターをステージに観ている。エリーザベト・ゼーダーシュトレームの伯爵夫人を観たのは彼女が引退直前の時だった。落ち着いた動きは年老いたとは言え、伯爵夫人の運命的な存在感は憐みを覚えるほどだった。「今の世がつくづく嫌になった」という言葉には無常観さえ漂っていた。ロンドンで接したジョセフィン・バーストウは、この役には少し年齢の不足を感じたが、「モスクワのヴィーナス」と呼ばれた若き日々の誇りを失わない、磨き抜かれた貴族の風格があった。 ミュンヘンでリタ・ゴールを舞台に観た時は心が躍ったが、声の衰えは隠せず、歴史的大歌手の姿を目にすることができたという満足感だけで終わった。さらに、ロサンゼルスではやっとロシアの大歌手オブラスツォワを聴くことができた。他の歌手を圧するが如き声の威力は役柄の年齢を思えば過剰に思われたが、ある意味では憎まれ役の伯爵夫人を小気味よく演じた。サンフランシスコでは芸達者なハンナ・シュヴァルツが登場した。彼女はこの響きの難しいホールで、恐らく立つ位置と声を飛ばす向きを考えて、特にリーザの部屋に怒鳴り込む場面では説得力ある声を聴かせてくれた。加えて演技も見事であり、歩き方や首の傾げ方ひとつで独特の表情を作り上げた。 《スペードの女王》は幻想オペラとも言える現実離れしたもので、同じプーシキンの原作に拠っておりながら、ロマンス一色の《エウゲニ・オネーギン》とは大きく異なり、人気も一歩及ばない。だが、《交響曲第五番》に聴かれる晩年のチャイコフスキー特有の暗さが支配しており、劇的な緊張感に包まれている点では、少々一本調子な《オネーギン》よりも直截的な面白みがある。さらに、主題の持つオカルト的な要素が異彩を放っており、演出家にとって遣り甲斐が感じられるのは《スペードの女王》の方だろう。実際、最近はこちらの上演回数の方が増えているように思われる。 |