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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》



第3回 2025年6月24日

『聴きたい!』 チャイコフスキー《聖史曲》


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 《聖史曲》の名に聞き覚えのある方は、コーラス・グループで歌った経験を持つ愛好家に多いことだろう。少年時代のイエス・キリストのフィクションをチャイコフスキーが声楽曲にしたもので、原曲は《十六の子供の歌作品五十四》の第五曲目である。作曲された一八八三年は彼がスランプから抜け出しつつあった時期で、オペラ《マゼッパ》を仕上げた後に書かれている。わき道に逸れるが、このオペラは美しいメロディーと聴きどころが多い割に何故か録音が少ない。私はグリヤコーヴァが歌った『マリアの子守歌』のしみじみとした舞台を今だ忘れられない。
 『伝説』と題された五曲目をとりわけ気に入ったチャイコフスキーは、翌年オーケストラ伴奏を付け、さらに六年後無伴奏合唱曲としたものが《聖史曲》と呼ばれて親しまれている。低音部が強調され暗い雰囲気も漂うが、ロシア民謡やスラヴ聖歌臭さもなく、いわゆるヨーロッパ風に洗練された哀愁の満ちあふれた旋律に支配されており、簡潔なまとまりを持つ短い曲なので楽しめる。心に残る理由の一つは、この音楽が下降進行で始まることによる。つまり、歌の多くは主和音のいずれかの音から始まって、高い音に進むのだが、この曲のように下ってくる音型で始まるものは珍しい。
 花畑の手入れを任されていた幼いイエス・キリストは、一面にバラを植えた。毎日一生懸命世話をして育て、花の冠を作ろうと思った。その甲斐あってたくさんの愛らしい花が咲き、喜びを分かち合おうと思ったイエスはユダヤ人の子どもらを呼び、生き生きと咲き誇っていたバラをすべて摘み取らせてしまった。子どもらは、「もう冠は作れないね」と首を傾げた。イエスは答えた。「ほら、ここにまだ茨(棘の付いた枝)が残っているよ」と。頷いた子どもらは茨を集めて棘の冠を作りイエスの頭に被せた。赤いバラの花に代えて同じ色の血が流れ落ちた。
 年月を経て、磔刑への道を歩むイエス・キリストの頭には茨の冠。彼がユダヤ人の王であることを嘲って被せられたものだ。このユダヤ人の子供らが大人になった時、同じことを繰り返すという意味を含めた殺伐とした光景であり、簡単に『伝説』と呼ぶにはあまりに痛ましい。だが、チャイコフスキーのメロディーはこの短い音楽の中に人間のおぞましさを見事に歌い上げている。これほど心の底まで届く表現はブリテンと僅かな例しか私は知らない。信者はすすり泣き無くしてこの作品を聴けないだろう。

 社会人になって間もなく手に入れたレコードで、アレンスキー作曲の《チャイコフスキーの主題による変奏曲》を聴いた時は大変驚き、数年ぶりに親友に出会ったような懐かしさと感動があった。流れてきたメロディーは学生時代に《聖史曲》として歌い親しんでいたものだった。淡々とした落ち着きを持ち、少し感傷的なメロディーだったが、ずっと濃厚で流れるような節回しが耳に入ってきた。それは、ジョン・バルビローリ指揮によるアメリカ・エンジェル社のレコードだった。
 魅力ある歌詞が曲に相応しく、合唱作品はその分だけ説得力があったが、アレンスキーによってさらに磨きが掛けられた繊細さが耳の奥に快感を与え、歌付きのものよりも親しんだものだ。その後、数多くはないが数種類の録音を聴いても、バルビローリの演奏こそ群を抜いた名演奏であると思っている。今や愛好家の中ではこの録音のオリジナル・レコードが相当な高値を付けられている。演奏と録音そして作品の良さと三拍子揃っているからだ。
 リムスキー=コルサコフの教えを受け、ペテルブルク音楽院で学んだアレンスキーだが、モスクワで出会ったチャイコフスキーと親密になった彼の心から、巨匠の音楽は離れなくなる。どこにもない憂いを含んだメロディーには特に共感を持ち、チャイコフスキーの代用品の如き悪口を叩かれながらも、アレンスキーはその流儀を捨てなかった。私は、哀愁に満ちた作品においてアレンスキーは、チャイコフスキーと同列において認められるべき作曲家であると思っている。
 アレンスキーもまた『伝説』のメロディーを愛し、最初は弦楽四重奏曲第二番の緩徐楽章で使い、その後、弦楽合奏用に仕上げた。これはチャイコフスキーの死の報を受けたアレンスキーの追悼的意味を持つ曲でもあった。チャイコフスキー自身の編曲を含めれば五種の違った演奏形態で楽しめる例のない曲となり、それぞれの形態によく似合った完成度の高い作品となっている。それらがすべて、録音されているかについては定かでないし、広く親しまれている楽曲となった今、あり余る録音が世に出ているようだが、未聴のものについては楽しみにとっておこう。そうしたことから、演奏についても繊細なものからドラマティックなもの、そして宗教的なアプローチの濃いものがあったりと種々楽しめる。

 私がこの曲を最初に知ったのは先の無伴奏合唱曲《聖史曲》であり、津川主一の感動的な訳詞が印象に残っている。「いとけなきイエスは 花園つくりて」で始まる、温かで敬虔な心情を感じさせる名訳で、ロシア語の知識のない私には原詩への忠実度も分らぬが、どうやら大意はいささかも変えていないようである。特に私のような団塊の世代においては、合唱仲間であれば津川主一の名の入った作品に、一度ならず接していることだろう。素晴らしい芸術はこうした得難い能力のある人を介して世界に広まっていくものなのだ。
 この合唱曲に聴くチャイコフスキーの書法は、低音部に極めて重厚な和声を与えており、ロシアの伝統を忘れていない。年行かぬイエスよりも大人の苦悩を感じさせる暗さも持っており、それがあって初めて、イエスの受難に向かう悲劇を思い起こさせるのである。二度にわたる下降音型のフレーズで始めることによって、聴く者は一瞬にしてチャイコフスキーの悲哀の中に引きずり込まれる。その後フレーズ毎の高まりが繰り返され頂点を築くが再び低きに落ち着く。この高まりはゼクエンツァ(漸増)にも似た効果をもっており、この短い音楽の中の白眉とも言える。
 敬虔なクリスチャンであった津川主一は涙のペンで訳詞を綴ったに違いない。そして、出版された譜面でも、その涙がまだ乾いていないように思われる。いや、出来れば作曲家と作詞家の心が一つになった類まれな作品を歌い上げるに、同じ心で臨みたいと私は思うのだ。音楽の不思議はそこにある。残された楽譜が全てであり、そこから何を汲み取ることができるか、それは人前であるにせよ、無いにせよ、楽譜に込められた思いを少しでも理解して音にすることが音楽の楽しみ方ではないだろうか。
 そうした姿勢はステージでも録音でも反映される。真摯な気持ちで対峙する耳であれば是非の判断は思いの外容易である。演奏する者が素人であれ巨匠であれ、心を開いて繰り返し耳を傾けているうちに、訴えてくるものの違いが次第に見えてくる。研究家が言っていた。『うた』という言葉の語源は「うったえる」にあるのだと。真偽は定かでないが、妙に当てはまると思う。

 ニコライ・ゲッダの歌うレコードに出合ったときは嬉しかった。この圧倒的なレパートリーを誇るテノール歌手は、器用人であるところが玄人には敬遠されがちだが、何にでも真摯に取り組み、失望させない得難い歌手であると私は高く評価している。かつて、私の古き友人で、フランス・ヴェガ・レコード社のディレクターを務めたギー・デュマゼール氏から直接伺ったが、ゲッダのフランス語はフランス人顔負けだったそうだ。ギーの奥様で、往年のパリ・オペラ座のプリマ・ドンナだったルネ・ドリア女史はゲッダと何度か共演しており、彼の発音は正にネイティヴのそれであったと加えてくれた。それにゲッダはドイツ語も堪能であり、特に録音の多いオペレッタでは、どのようなタイプのソプラノと歌っても、呼吸の合わせ方の旨さには感心する。
 ゲッダは『伝説』を美しく、また感傷的には歌わない。スウェーデン生まれの彼はドン・コサック合唱団団員を父としているだけに、ここでのロシア語もまた本物なのだろう。見事な語り口でバラード風に歌い上げることで、徒ならぬ雰囲気が漂っている。これはもはや「子供の歌」ではなく、短い音楽の中に、この物語に秘めた「主の受難」をカンタータの巨大さでもって表現している。
 歴史的バス歌手ボリス・クリストフが歌った『伝説』。ステレオ初期の録音は昔から知られているが、それは時代的な表現と言って良いのだろう。テンポの大きな変化によって曲想をデフォルメし、スラヴ臭を漂わせる。その他女性ソリストによっても数多く録音されているが、訴えかけの強さという面ではこの二人に及ばない。いずれにしても、子どもの歌というテーマからは距離を置いた演奏が多いのは確かである。
 合唱では独唱以上に個性的なものが多い。そうした中で、私がロシア民謡のレパートリーで最も愛好している、アカデミー・ロシア合唱団の録音がある。捉え方は彼らの十八番である《母なるヴォルガを下りて》と全く変わらず、怒涛のようなハーモニーで滔滔と歌い上げ、巨大な雰囲気を作り上げている。これも子どもの歌などという観念は一切無く、かといって、ありきたりの民謡でもなく、芸術的高みまで昇華された演奏である。これを聴くと、作品の持つ悲哀を越えて、私は音楽の中に諦念さえ感じる。

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