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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第2回 2025年6月17日 『言いたい!』 私の「音楽ノート」 多くの方がそうであったと思うのだが、紀元二〇〇〇年を迎え、私は何か新たなことを習慣として自分に課し蓄積し、仕事上でも己が生きる上でも無形の財産にしていきたいと胸に誓った。幸い私は恵まれた環境にあった。クラシック・レコード専門店の経営者として、全国に数多いレコード愛好家の求めに応じ、海外に出掛けてはオリジナル・レコードを買い集めて回るという珍しい仕事をしていた。その頃は、欧米に出掛けることが年に五度以上もあり、年間延べ三か月程度は海外にあった。 そこで決めたのは、もちろん好きな音楽の道に関わることである。それまでもかなりの頻度で通っていたコンサートやオペラ観劇に真剣味を加え、現地で時間の空いた時に気が向けば足を向けると言った楽しみ方を改め、目標を立て積極的に聴き観て回ろうと思い立ったのである。半端なことでは済まない性格で、具体的には一年間に百回前後のステージに接すること、それを取り敢えず十年間続けること、さらに、全ての公演について必ず一ページ以上ノートにまとめることである。 ただでさえ忙しい海外出張の仕事の合間に続けるのは決して楽ではなかった。時には列車の中でノートを取り、あるいは夜更かし、または早起きして書いた。機会が増えればとても演奏の直後に綴ることができず、時には帰国してから纏めることもあったが、記憶に留めるためメモに残したりして休まずに続けた。 こうして始まった私の『音楽ノート』は十年目の二〇〇九年八月、シアトルでのヴァーグナーの楽劇《ニーベルングの指輪》という大きな経験で、九百四十一回をもって終わっている。ノートは二十一冊を数えた。目標の千回に届かず中途にして終わったのは心境の変化と言う私的な事情によるものであり、私の気持ちが演奏会やオペラに通うということから大きく離れたからである。不思議がる友人知人に対しては、今でも理由を話さないでいる。 時間と労力を最も費やしたのは下調べである。次の出張期間に予定されている公演曲目について、耳からも目からも情報を得なければならない。これを怠れば、折角の恵まれた機会は十分に生かされない。特に初めて経験するオペラであれば、予習は半月程必要になる。果たして私の荷物は資料で大きく膨らんだ。だが、訪問先の海外では、少なくとも二十件以上の取引先を廻るので、車の付いた旅行トランクなどは絶対に携帯できない。それまでも私の旅行鞄は肩に下げるバッグ一つにしていた。この時以来小さな鞄は参考書などで埋め尽くされた。折から、機内持ち込みの鞄の大きさの制限が厳しくなり、それに見合ったサイズの中に、私は本や資料を詰め込んだ。当初はウォークマンと二十枚前後のCDが場所を占めたが、しばらくして「アイポッド」に代わった時はずいぶん楽になった。 それでも、往路より帰路はさらに大変である。何故なら演奏会のプログラムが加わる。特にオペラ公演のものは分厚い。私が連続で経験したステージは一か月間休みなしで、三十四の演奏会という記録がある。マチネ・コンサート(昼公演)も加わるからそうなったのだ。さらに海外で買い集めた資料な・・・・・・ああ。 忘れもしない体験談。それはブリュッセル駅のホームで起きた。当時のブリュッセルが治安の悪いことは十分に知っていたし、いつだって旅の間は緊張感を持って行動した。寒い季節だったので、私は厚いガウンを着ていた。人の良さような五十歳前後の男に声を掛けられた。ガウンの背中に何かが付いているから拭き取ってあげようというのだ。私は何の疑問も挟まず、ショルダーバッグを下ろし、彼の手を借りてガウンを脱いだ。手回し良くティッシュ・ペーパーの束を取り出した彼は慣れた様子で拭き始めた。その途端、近くにいた老夫婦が声を張り上げた。 「泥棒!あなたの鞄が!」。その声に振り向いた私は、二十メートル先をエスカレーターに向かって突進していく若い男の姿が目に入った。ダッシュした私がエスカレーターに辿りついた時、男は中段にいたが、鞄を重そうに手に提げ、数歩昇ったと思ったらドスンと鞄を手離した。丸々と肥えて二十キロ近くあった鞄の重さに男は観念したのだ。鞄はエスカレーターを転げ落ちてきた。取り戻した鞄を肩に下げて戻ってきた私は、老夫婦に礼を言い、投げ捨ててあったガウンを着た。考えてみればグルだったもう一人の男の影は失せていた。日常的に海外に出掛けていた私には、こんな経験が山ほどある。その都度、日本の治安の良さを誇りに思う。 『音楽ノート』に話を戻し、「はじめに」と書かれたページのトップを転載してみよう。「欧米を出張で歩いている中で、積極的にオペラやコンサートに通うようになって久しい。それは私の血となり肉となることは勿論、ひいては仕事の上でも相当な影響を及ぼしている。貴重な体験は、評論家や学者をもってしても簡単に得られるものでなく、島国に生活する日本人にとっては恵まれたものである。出張という状況の中で音楽会に通うことの後ろめたさもあったが、これらをいっそう自分自身の中に定着させ、それがやがて出張の副産物どころか、蓄積され向上し、豊かな実りを得ることを念頭に置いて努力するならば、私の生きる指針として位置付けるにふさわしい。これまでは、ステージに接するたびに、覚え書き程度に記録を残してきたが、何の拘束もなく出張の疲れを癒す場に過ぎなかった。それが音楽会に臨む気持ちを堕落させていた。せっかくの機会を居眠り半分で棒に振ることも多かった。この『音楽ノート』を書くことで聴き方を変えたい。出張の日程はことのほか厳しい。そうした中で疲労を乗り越え、冴えた頭で集中して音楽を聴くには、業務を緩やかにすることも必要になるだろう。それは望ましい。私も鴨長明が方丈に移り住んだ年齢である。天命を知る方がよほど大切だ。余りにも激務であった出張から心の一部を解放し、新たな活路を開くべき時が、来るべくしてきたと考えよう」。 いま思えば何という大言壮語。だが、夢中で聴き、観て回った経験は積もり積もって、私の中にも現実的にも掛け替えのない資料として残った。二十一冊の「音楽ノート」は、自分自身の言葉として、あるいは考え方の記録として、今後何かと役に立つだろう。実際、こうして、多くの方々の目に触れることになった。 『音楽ノート』、第一回目のステージは、何と、ベルリン・フィルハーモニーに初めて足を運び、この音楽ファン夢の殿堂でのマーラー作曲《千人の交響曲》という記念すべき演奏会に接した。その頃、私は立て続けにマーラーに接していた。ひと月前にニューヨークのカーネギー・ホールでバレンボイム指揮のシカゴ交響楽団で聴いた《交響曲第五番》。荒々しく心の底をぶつけるような演奏で、長いことマーラーから遠ざかっていた私は、若い頃夢中で聴いていた自分に再会したような歯痒い気持ちを味わった。六日置いて、同じホールでブレーズ指揮のロンドン交響楽団による《交響曲第六番》の演奏会。それはバレンボイムとは対照的なもので、マーラーの中に潜んでいるモダンな部分をとりわけ強調し、古典やロマンティックな部分をそぎ落とした解釈であり、息苦しい面もあった。この冷徹な解釈がブレーズの面目なのだろうが、私の理解の範囲を越えていた。 歴史に新しい、ベルリンの壁が撤去されて以来、このホールの界隈はどこまでも広い荒れ野原に見上げるようなクレーンが無数に立ち並び、建築ラッシュで壮観だった。それでも、まだまだ旧東ベルリン地区は開発途上であり、フィルハーモニー自体の外観のユニークさを超える、巨大な未来志向の建造物建設がいくつも進んでいるのには圧倒された。前年、私は音楽会場であるフィルハーモニーには入れなかったが、併設された楽器博物館をゆっくり楽しんだ。それらの楽器の中には大バッハやベートーヴェンに縁のものもあり興味深く眺めたものだ。しばらくして、歩いて回れる範囲に美術館なども立ち並び、この辺りは文化 地区として姿を変えていった。 そして私は夢にまで見たフィルハーモニーに、とうとう足を運んだ。写真では何度も見ていたが、第一印象は雑然とした感じだった。五角形という奇妙な造りがそうした印象を生むのだ。それは、七二度の見慣れぬ切込みが至る所に生じ落ち着きがない。だが、こうしたアブストラクトな構造が複雑な反響音を作り、巧妙な音空間を醸し出す。実際、音響は極めて良い(その後の経験では座席によって大きな違いがあった)。ギリシャの舞台芸術を理想としたすり鉢型の野外劇場を基本としており、すり鉢の底に位置したオーケストラの音はメガホンの原理で、見事に広がってすべての客席に届く。 《千人の交響曲》は復活祭シーズンの九日間にわたって行われた『フェストターゲ』という催しの中の一つだった。あいにくベルリン・フィルハーモニーはザルツブルクへ演奏旅行中で、オーケストラはシュターツカペレ・ベルリン、指揮者はミヒャエル・ギーレンである。当時ギーレンはベルリン国立歌劇場の指揮者でもあった。彼は現代作品を得意としているという先入観があった私には、思いの外古い体質に聴こえ、ヴァーグナーの香りも滲ませる一方、厳格な表現も目立つ演奏であった。何よりも印象に残ったのは、テルツ少年合唱団とベルリン放送合唱団、そして共演したプラハ・フィルハーモニー合唱団の調和の取れた美しさだった。こうして、この晩から私の本格的な音楽会行脚が始まった。 |