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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第1回 2025年6月10日 『観たい!』 ロッシーニ《チェネレントラ》 スカラ座でクラウディオ・アバード指揮でテレサ・ベルガンサが歌った世にも名高い公演に接しても、さほど興味を抱かなかった私がオペラ《チェネレントラ》に深入りしたのは、イタリア・チェトラ社発売のマリオ・ロッシ指揮によるレコードを聴いてからである。その軽快な演奏に驚いてこの作品に親しみ出した。さらに、ザルツブルク音楽祭の録画だっただろうか、アン・マレイ、フランチェスコ・アライザ、ジーノ・キリコという演技達者のキャストをそろえた名演奏以来、ロッシーニ作品の中で最も愛すべきものになった。 抱腹絶倒のブッファ作曲家として世に知られているジョアッキーノ・ロッシーニは四年に一度しか誕生日を迎えない、いかにも彼らしい星の下、二月二十九日に生まれた。人気作《セヴィリャの理髪師》を初演したのが二十四歳の時で、翌年、この作品《チェネレントラ》の初演までの間、他に二つのオペラを作曲しているというから大変な速筆家である。ロッシーニの音楽と言えば圧倒的にオペラ《ウィリアム・テル》序曲が有名で、その他の序曲も聴きやすく、それぞれ短いので『序曲集』という形で録音されたものに多くの愛好家は親しんいる。中でも先に挙げた三つのオペラの序曲はたいてい加えられている。 速筆家であると同時に、ロッシーニは原稿締め切り日に間に合わす為だろうか、自作の転用が甚だ多い。《チェネレントラ》も例にもれず、四ケ月前に初演されたオペラ《新聞》の序曲をそのままそっくり転用している。つまり、同じ序曲を持つオペラが二つある訳だ。ベートーヴェンがオペラ《フィデリオ》のために四つの序曲を作曲したことを思えば誠に対照的である。もっともベートーヴェンは二十二歳年下のロッシーニの評判を聞き、指をくわえて羨んでいたようだが。 序曲を転用したのみならず、その中の最も心浮き立つ部分が、本編の中でも使われている。すなわち、序曲の副次主題とでも呼ぶべきところ、二小節の上行音型を二度繰り返した後、四小節に渡って下行する全八小節にわたる大楽節は、六回続けられ非常に印象的である。上行音型と下行音型は応答風で、実際オペラの中では二人姉妹によって下降音型が歌われ、唖然とする効果を生んでいる。ロッシーニは転用前のオペラ《新聞》では序曲以外にこの気の効いた部分を使っておらず、この魅力的なフレーズを「移転先」では序曲と第一幕のフィナーレで繰り返し使った。この部分は私の大好きなパッセージなので詳しく述べた。 《チェネレントラ》は童話『シンデレラ』のイタリア語読みだ。物語の流れは同じだが、小さな部分は違っている。例えば、カボチャの馬車や真夜中十二時の期限は無く、ガラスの靴の代わりに腕輪が使われる。当時は取替劇が流行し、男が女に扮し、そしてその逆が面白おかしく表現された。ここでは、王子と従者が立場を替える。そのために、欲張り姉妹とチェネレントラの継父は王子に変装した従者に媚びを売り、チェネレントラは従者に変装した王子の人となりに惹かれる。 チェネレントラが主役となるものの、この作品はいわゆる「プリマ・ドンナ・オペラ」と違い、《フィガロの結婚》と同じように「アンサンブル・オペラ」と呼ばれ、高度な歌唱力と芸達者であることが出演者たちに要求される。各パート、細かな装飾音型や速いパッセージで埋められ、それを数人で歌う場合は呼吸がぴったり合わなければ面白みが半減する。おそらく、ヴェテラン歌手にとっても合わせの練習が相当必要になり、その意味では、練習を積むほどレベルが上がることから、小さな劇場で見事に揃ったアンサンブルに出会うことが多い。勿論その場合は、それを統率する指揮者の力量が大きく問われる。 スカラ座公演はこの上ない豪華なものだったが、主役二人に年齢的な無理があったようで大きな拍手は得られなかった。共にロッシーニ歌手として世界的に認められていたベルガンサとルイージ・アルバは、親しみやすい声で演技もこの上なく心得たものだったが、何か味気なく、模範的に過ぎて訴えかけに欠けたのだ。この作品で聴衆は何を期待しているかと言えば、それはアンサンブルの楽しさとユーモアである。 この頃既にイタリアのオペラ界には陰りが見え始めていた。各地の愛好家の熱意は素晴らしいものがあったが、七十年代のイタリアは不況に苦しんでおり、当時の通貨リラはインフレーションによって暴落し、例えば買い物をすればバス券で渡された。簡単に言えば貨幣よりも、バス券の価値が安定していたということだろう。それがオペラ公演を維持するための資金不足にも繋がっていたのである。 スカラ座での演出はジャン・ピエール=ポネルのもので、舞台両袖に小さな二階家がある如何にも童話をイメージさせる造りだったが、これを三十年経ってサンフランシスコ歌劇場で観た時は驚きだった。演出というものはこれほど長きにわたって使われるものなのだ。ポネルが姉たちに部屋を一つずつ与えたことで、シンデレラは眠るときも暖炉の側で坐ったままであろうと推察される。同時に、部屋に戻って身支度を整える二人の姉の様子も楽しめる。だが、それを意識し過ぎると、演奏上この二人の声も演技も離れすぎて調和が取れなくなる。ロッシーニがステレオ効果を出そうなどと考えている訳は無く、姉妹を常に一つにして響き合いやズレを楽しんでいることは音楽そのものから明白だ。 序曲は浮き立つようなセンスの良さで演奏されたものを聴きたい。それまで、トスカニーニやアバードの序曲演奏を気に入っていた私は、マリオ・ロッシの音質の悪いレコードを聴いた途端、それまで描いていたこの作品と全く違った世界に引き込まれた。それは横溢する生命力であり、言い換えれば躍動するエネルギーだった。テンポの良さとか、快活な気分とかは他の演奏にも感じていたが、ロッシはさらなる高みに到達していた。 マリオ・ロッシは事もあろうに、私が大好きなトスカニーニから依頼されたスカラ座顧問の仕事を断り、トリノに移って活躍した。イタリア・チェトラ社は敗戦後オペラに飢えていた国民のため、トリノ放送が熱心に取り組んだオペラ番組の音源を中心に、五十に余るオペラ・レコードを制作して世に送った。放送時間の制約があるためにカットも目立つが、この壮大なプロジェクトが続けられたのはロッシあってのことである。幸いにも彼は二種類の《チェネレントラ》を録音しており、それぞれに、ジュリエッタ・シミオーナートそしてテレサ・ベルガンサという願ってもいないタイトル・ロール(題名役)を配している。 シンデレラ役の最も難しい点は、常に一歩退いているという謙虚さの表現である。そこから、この劇の持つペーソスという大きな要素が漂ってくる。彼女は王妃として選ばれた後も、決して有頂天にはなっていない。一方、最初と終わり近くにモノローグのように歌われる『昔、王様が』は、グノー《ファウスト》の『トゥーレの王』と同じで、私はそれぞれの場面にそぐわない雰囲気を持っている音楽であるといつも思う。どちらも物憂さが勝っており、何か希望を感じさせる情緒が必要だと思うからだ。 先に言ったようにこのオペラではアンサンブルが最重要であり、快感を伴う滑稽味はあらゆるオペラの中でも最高のレベルにあると言えよう。オペラ・ブッファという面から《チェネレントラ》の上演について配役を評価すれば、第一に従者ダンディーニ、次にドン・マニフィコであろう。少なくともチェネレントラ自身と王子ドン・ラミーロはいささかも滑稽味が無いわけだから、いや、滑稽味のある多重奏の中では、雰囲気を壊さぬ配慮が求められるが、それ以上の寄与はしない。ここで、クローズ・アップすべきは、クロリンダとティスベという姉妹である。二人の声が溶け合い、アンサンブルの中で見事な合いの手を挟んでくれれば、他の歌手たちが少々崩れても大方成功するだろう。 二重唱から合唱を加えた多重唱まで聞かせ所は次々と出てくるが、言葉のアクセントを巧妙に音楽にしたような、まるで仕掛け物の極めて複雑な動きを見るような驚きが漲る。それはオネゲルのオーケストラ作品から受ける精妙な描写と同じような快感をもたらす。《アルジェリアのイタリア女》の『パパ・タッチ』を含めて、こうした音楽が指揮者を中心にすべての歌手たちが一つになり、浜辺に打ち寄せる波のように、飛沫の一粒一粒の躍動や輝きが迫ってきてこそ、身が震えるほど喜ばしい感動に包まれるのだ。 同じブッファでも、ドン・マニフィコと従者ダンディーニは異なる。ドン・マニフィコは古来演じられているままであるが、ダンディーニは格好良さが求められる。出来れば、パリのマキシムで通用するような洒脱さがあれば尚よい。時々、王子ドン・ラミーロはダンディーニの陰に隠れてしまう。衣装を取り替えっこしたことで、役の重要性まで失ってしまう舞台は良くある。旋律の中できらめくような装飾音の多用は、この器用な下種男ダンディーニを王子に見せかけるために、矢鱈とレースや羽飾りで音符を包んでくれる。 クロリンダとティスベ姉妹の歌唱はアンサンブルの中でひときわ巧妙な輝きを見せ、私はこの二人の登場場面が待ち遠しい。第一幕フィナーレの転用部も素晴らしいが、嵐の音楽の後の六重唱は天から降ってきたような奇跡の音楽である。基本的に抑えられた美しさの中に突如として高まっては再び鎮まる。巻き舌による『る』音の強調が印象的で、私なりに『堂々巡りの六重唱』と呼んでいる。《チェネレントラ》は、若干の抒情を漂わせた中に切れの良いリズムと生命力を加えたロッシーニの最高傑作と言える。 |