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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第45回 2026年4月14日 無念の大作《トゥーランドット》 オペラの登場人物は往々にして異常である。特に主人公がそうだ。悪魔的なキャラクターは男に多いが、トゥーランドットほどの悪女は見当たらない。プッチーニは、そこが魅力でオペラ化を考えたようだ。題材に出合った時は、さぞ心がときめいたことだろう。ミミやバタフライに象徴される悲劇のヒロインを「プッチーニ娘」と呼ぶそうだが、男への嫌悪感をあらわにする女は初めての登場である。このオペラの創作に当たって難しいのはハッピー・エンドであることだ。信じがたい経緯の末にトゥーランドット姫とカラフ王子は結ばれる。だが、困難を経て救われたのはリュウと言う一介の奴隷娘の自己犠牲によるものだ。因みに、リュウを「プッチーニ娘」に含める向きもあるようだ。 ところが、《トゥーランドット》の創作理念はそれまでのプッチーニ・オペラとはまるで違っていた。彼は途方もなくスケールの大きな題材を願っていた。登場人物ひとつとっても、ヴェルディの《アイーダ》に匹敵するような、あるいはヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》を超えるような・・・・・・その意味では成功した。《トゥーランドット》はメトロポリタン歌劇場やヴェローナ野外劇場のステージを登場人物で埋め尽くすことができる大オペラになった。 さらに、それに見合った響きについての工夫は並みならぬものがある。プッチーニの創作力、特に管弦楽法は目を見張るものがあった。この作品を作り進める中で、その力は一段と高められた。従来の楽器に加え、近代音楽だから許される“鳴り物”をいろいろと加えた。このオペラは単に異国情緒で成り立っているわけではなく、切れ味の鋭い、殺伐とした雰囲気を醸し出す楽器群とその使用が功を奏しているのだ。 このオペラは復讐劇でもある。数千年も遡る先祖の霊を鎮めるために、トゥーランドット姫は男を生贄に供える。それも、由緒正しい男の命に限る。この題材そのものが過去に例の無いもので、欧米の新興国では差し障りがあるので舞台を中国、長い歴史を持つ北京とした。当時為すがままに列強の餌食となっていた中国。もしかして、原作者の頭の中には俗説の多い西太后とトゥーランドット姫が二重写しになっていたのかも知れない。いずれにせよ、このストーリーを知った時のプッチーニは心が躍っただろう。 1911年、ベルリンでカルロ・ゴッツィ作・マックス・ラインハルト演出の音楽劇《トゥーランドット》が初演される。プッチーニは脚本家ジュゼッペ・アダミとの書簡でこの公演について触れている。彼はここで初めてオペラ《トゥーランドット》の着想を得た。だが、作曲のペンを執るまでには10年近い歳月が流れた。《三部作》を書き終えたプッチーニは、やっと《トゥーランドット》の作曲に着手し、晩年の4年間をこの作曲に費やすことになる。 時を無為に過ごしたのではない。この期間、ヨーロッパでは第1次世界大戦と言う暗雲が立ち込めたのだ。かつての荒武者的なプッチーニは影を失っており、寡黙になり、懐疑的にさえなっていた。そんな時、彼を誘惑する出来事が起きた。故郷ルッカで中国通の男爵と会い、小さなオルゴールを借りた。その音楽は大作曲家を刺激するに十分だった。繰り返し聞いたのは中国古謡《茉莉花》だった。これは群衆の歌のテーマとして使われた。 百戦錬磨のプッチーニにとっても難儀で大きな仕事だった。台本の作成だけでも2年を費やした。信頼於ける二人の台本作家シモーネとアダミ。彼らとの間で、変更・カット・拡張が幾度となく繰り返される苦悩の日々が続いた。音楽が頭の中から簡単に流れ出してくるのでは決してない。台本が出来て初めて背景と状況がはっきりと掴めて、それに相応しい音楽を生み出すことができるのだ。 プッチーニは挫折を繰り返した。あまりにも無謀な企てだと何度思ったことか。「もう作曲する気力は全くない」。「《トゥーランドット》は結局犠牲になるだろう」と友人に書き送った。だが、時には見違えるように元気になった。これは芸術家の日常でもある。そんな時彼を慰めてくれたのは友人たちであった。ティタ・ルッフォ、ローザ・ポンセルといった歌手たち。そして作曲家のレオンカヴァッロ。特に楽しかったのは指揮者トスカニーニとの語らいだった。彼はトスカニーニの短気なところは嫌っていたが、豊かな才能には敬意を表していた。 プッチーニが最後まで悩んでいたのは、“トゥーランドット姫”を改心させるための説得力ある手立てだった。そこで思いついたのがリュウの犠牲死だった。“愛”の名の下に自らの命を絶つリュウ。それによって流される涙が、氷のような姫君の心を溶かすのだ。結局はここに至って再びリュウという薄幸な「プッチーニ娘」が誕生するわけだが、プッチーニの心には揚々と朝日が差してきた。彼のペンは第二幕のオーケストレーションに向かって動き始めた。だが、体に異常の起きていることに彼は薄々気付いていた。 彼はヘヴィー・スモーカだった。その影響は喉に来た。この大作に取り組み始めて三年以上経つ。それで無理をしたとは思わなかった。作曲に向かう場合の過度な毎日はこれまでと何も変わらなかった。“リュウの死”までは殆ど出来上がったが、先に進めるだけの体力が無かった。これほど急激に痛みが進行するとは思っていなかったので、いつものようにミラノ・スカラ座での《トゥーランドット》初演の話は取り付けていた。家に尋ねてきたトスカニーとはその段取りを話し合っていた。だが、一進一退の病状に名指揮者も頭を抱えた。 1924年秋、フィレンツェの専門医が、作曲家は咽頭癌であると息子のトニオに告げた。手術は不可能な段階まで病状は進んでいた。だが、僅かな可能性を期待し、手術のためにヨーロッパで最も進んでいたブリュッセルの病院に移った。この時プッチーニは訪ねてきたトスカニーニにこう言ったと伝えられている。「オペラは未完となり、誰かがステージから客席に向かって言うだろう・・・・・・ここまで書いてマエストロは亡くなりました」と。 術後の経過が思わしくなく、11月29日にプッチーニは息を引き取った。棺はミラノに運ばれ式典が開かれ、トスカニーニにより故人の作曲による《レクイエム》が演奏された。未完のままで残された《トゥーランドット》を前にトスカニーニは考えを巡らした。「4月に予定されているスカラ座初演までに何としてでも完成させたい」。幸い作曲家は残りの部分のスケッチを残していた。これを仕上げることのできる男として浮かんだのは若い作曲家リッカルド・ツァンドナイだった。オペラ《フランチェスカ・ダ・リミニ》のトリノでの評判は聴いていた。だが、プッチーニの跡取りであるトニオが承知しなかった。協議を重ねた後、故人の弟子フランコ・アルファーノが受けることになった。アルファーノは期日までに完成した。プッチーニの期待に沿うものであると自信のほどを見せた。 1926年、《トゥーランドット》のスカラ座初演の幕は上がった。誰もが目を見張る壮大なステージが繰り広げられた。だが、演奏会前、トスカニーニは全ての出演者を前に告げていた。「アルファーノの作曲したフィナーレは演奏しません」と。これが、アルファーノへの非難であるのか、プッチーニへの敬意の表れなのかは未だに分からない。その言葉通り、“リュウの死”の場面を終えるや、トスカニーニはおもむろに指揮棒を置き、「マエストロはここまで書いてお亡くなりになりました」(言い方は諸説あり)、と。 そのまま低頭して一分間の黙祷を捧げたトスカニーニが頭を上げるや、作曲家と指揮者そしてステージの出演者を称える叫びと共に、割れんばかりの喝采が会場を震わした。たとえスカラ座が崩れ落ちようとプッチーニの無念は晴れなかっただろう。プッチーニのこのオペラに対する思い入れを知れば、それは誰にでも理解できる。 プッチーニは、グルックのように、あるいはヴァーグナーのようにオペラの改革者でありたかった。それまでに書いたメロドラマの数々では満足できなかった。 冒頭に言ったように、《トゥーランドット》の創作理念はそれまでのプッチーニ・オペラとはまるで違っていた。彼は途方もなくスケールの大きな作品を願っていた。《アイーダ》や《ニュルンベルクのマイスタージンガー》のようなスペクタクルである。それに加えて、「トゥーランドット姫」というキャラクターは過去に描かれたことの無いスケールの大きな悪女である。 すべての登場人物が彼女の前では霞んでしまう。カラフを除けばすべてが盲目的に従うのみである。トゥーランドット役は、これまでのイタリア・オペラにおけるドラマティコ・ソプラノでは通用しない。実際舞台でも録音でもこの役を歌えるイタリア人は少なく、ドイツ系・スラヴ系そして北欧の歌手である。このことだけでもイタリア・オペラにとっては革命的である。 だがプッチーニは、少なくとも最後まで完成していた台本を読んで、満足いく結果が得られると思っていたのだろうか。アルファーノが補完したオペラはプッチーニ当初の狙いとは異なっている。また、時折上演される、トスカニーニがやったような“リュウの死”で終わった場合は、皮肉にもこの壮大なオペラはイタリアの伝統的メロドラマとして終わってしまうのだ。これは、プッチーニにとって満足いくものだったのだろうか。 《トゥーランドット》完成への努力は続けられている。2002年、作曲家の同国人ルチアーノ・ベリオが残された台本に作曲した。この楽譜はミラノのリコルディ社からも出版された権威あるものだが、2008年ベルリンでベリオ版による公演を観た私にはアルファーノ版と五十歩百歩だと思った。最後に、リュウと言う女性はプッチーニの創作であり、台本作家ゴッツィにも書かれていない、極めてプッチーニ好みの女性である。 ![]() プッチーニ トゥーランドット総譜 伊リコルディ社 1977年版 |