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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》第44回 2026年4月7日 “ヴァルトシュタイン”あれこれ 私が初めて買った30cmLPレコードはバックハウスの演奏した“ヴァルトシュタイン・ソナタ”だった。ジャケットは曲名のアルファベットが二つ並んでいる簡素なデザインで、カップリングは“熱情ソナタ”(1959年録音)。価格は覚えていないし、小遣いを貯めて買ったか母にねだったかも忘れてしまった。これが欲しかった理由ははっきりしている。テレビを見ていたら、馬が駆ける場面で徒ならぬ和音の連打が聴こえてきた。それは、30秒もの間鍵盤を叩き付けているように思われた。中学三年の私の耳の中で何日間もその音は鳴り続けた。 その音楽が何であるかは確かめようがなかった。音楽の先生や、物知りの友人に訪ねるのは気恥ずかしく、当たって砕けろの気持ちで十分なお金をポケットに、町のレコード店へ行った。音楽好きの友人の買い物に付き合うことは多かったが、自分のレコードを買うために店へ入るのは初めてだった。奥の方に店長らしき初老の紳士が立っていたので私は躊躇いなく尋ねた。「こんな音楽が欲しいんですが、ピアノ曲です。・・・ダダダダダダダダ」。私にはその方法しかなかった。 後で分ったが、彼は店長だった。にこりと笑うや、ちょっと離れてすぐに一枚のレコードを手に戻ってきた。「多分これでしょう」と言いながらジャケットから取り出し、傍にあるターン・テーブルに乗せて針を下ろした。スピーカーから流れてきたのは正にあの音楽だった。演奏はテレビで聴いたものよりも一層迫力があった。私は興奮して最初の部分だけ頷きながら聴いた。笑顔を見せた店長は満足げに幾つか説明してくれた。ベートーヴェン作曲、ピアノ・ソナタ第21番「ヴァルトシュタイン」はこうして私の最初の愛聴盤となった。だが、その親切な店長が十年後には私の上司になるとは夢にも思わなかった。 「ヴァルトシュタイン・ソナタ」について、ジャケット裏の解説で多くを知った。とても格好の良い名前だと思った。やがて大学で音楽を学ぶようになった私は、この大好きなソナタのアナリーゼ(分析)も試みた。少なくとも中期までのベートーヴェンの作品は、楽曲分析の好材料だった。多くの演奏も聴いたが、バックハウスは今でも一番好きな演奏だ。だが、作品や演奏家の背景に深入りしたくなるのが私の習慣で、ヴァルトシュタイン伯爵について調べてみたら、多くの興味深いことが分かってきた。 ボヘミアの貴族の家系に生まれた彼は生涯軍務を天職と考えた。折からのナポレオン戦争で、神聖ローマ帝国(含むボヘミア)は大きな被害を被ることになるが、彼のようにその身を投げうつほどの人間は少ない。命こそ落とさなかったが、彼は軍務のために私財を投じて破産し、薄幸な最期を遂げた。 さて、1787年、ケルン選帝侯の随臣としてとしてボンでドイツ騎士団司令官に着任したヴァルトシュタイン伯は、ベートーヴェンと親交の深いブロイニング伯爵家で17歳のベートーヴェンと出会う。意気投合したヴァルトシュタイン伯爵は、天才ピアニスト、ベートーヴェンの最初の保護貴族となった。ヴァルトシュタイン自身芸術的才能が豊かだった。即興演奏家としても知られるピアニストであり、勿論作曲もしており、交響曲も残されている。 1790年、神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世が死去。ヴァルトシュタイン伯爵は所属する読書協会からベートーヴェンに「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」の作曲を依頼した。これは、公開演奏こそ実現しなかったが、ベートーヴェンの作曲家としての道を開いた。二人の交友は深まり翌年ベートーヴェンは「ヴァルトシュタイン伯爵の主題による8つの変奏曲ハ長調」を作曲し感謝の意を表した。 この年のクリスマス、ハイドンが招聘者ザロモンと共にロンドンへの旅の途中ボンに寄り、先の読書協会を訪問する。ザロモンはロンドンにおける力のある興行主で、かつてはボン宮廷楽団でヴァイオリンを弾いており、ベートーヴェン一家は大変世話になっていた、この時、ハイドンに会っていればベートーヴェンの将来は幾分違っていたかも知れない。だが、読書協会員のヴァルトシュタインは当時世界一の作曲家として尊敬を集めていたハイドンに、当然会う機会を得ていただろう。 さらに翌々年夏、ハイドンは交響曲第93番から98番までを書き上げ、大好評のうちに後にしたロンドンからの帰途再びボンを訪れ、ゴーテスベルクで選帝侯宮廷楽団のメンバーと昼食会を楽しんだ。偶然と言おうか、前年ヴァルトシュタイン伯爵はゴーテスベルクに騎士領を得ており、その地で知己のハイドンと旧交を温めた。ここでベートーヴェンはハイドンに自作カンタータを見せて弟子となり、ヴィーンへ行くことを約束する。ハイドンはまた、親しくしていたリヒノフスキー一族をベートーヴェンに紹介し、ウィーン滞在の最初の3カ月は彼らの家で快適に過ごせることを約束した。これにはヴァルトシュタイン伯爵の口添えもあったようだ。 ベートーヴェンの旅立ちに当たって、友人たちは寄せ書きをした。その中にヴァルトシュタイン伯爵は有名な言葉を残した。「たゆまぬ努力によって、ハイドンの手からモーツァルトの精神を受け取り給え」と。知人友人たちの励ましの言葉で埋め尽くされたこのアルバムの中の一節は、正に音楽史の流れを言い当てており、ここにヴァルトシュタイン伯爵の若きベートーヴェンに対する熱き思いが集約されている。 ヴィーン留学はハプスブルク家の大公であるボン選帝侯マクシミリアン・フランツから俸給を得る形となったが、これもまたヴァルトシュタイン伯爵の力添えが合って可能になったのである。またこの時、ボンに住んでいたベートーヴェンの友人フランツ・リースは、ベートーヴェンにはボンの宮廷音楽家としての資格が残っており、留学後も俸給は継続されるべきだと奔走し、経済面でベートーヴェンを助けた。多くの温かな思いやりに包まれてベートーヴェンはヴィーンに旅立った(1792年11月2日)。だが、彼は二度と故郷ボンの土を踏むことは無かった。 一方、世の中は騒然としてきた。世情穏やかならぬフランスがオーストリアに宣戦布告をしてきたが、オーストリア・プロイセン連合軍を前にフランスの危機意識は高まった。ベートーヴェンのみならず、この時代を語るにはこうした歴史を看過するわけにはいかない。この後は王侯貴族の多くが支配地を離れ安全なヴィーンに向かうが、ナポレオンが天下を取ってからは安全の保障はされない。 1792年12月からハイドンによるベートーヴェンのレッスンが始まった。だがそれは、ハイドンが再びロンドンに向かったことで中断されたままになる。年が明けるや世界を揺るがす事件が起きる。ルイ16世の処刑である。ここに、前代未聞のヨーロッパ各国による第一次対仏大同盟が成立する。 一方、ハイドンの口添えによりベートーヴェンの作品の出版も始まった。特にアルタリア社からの刊行が増えた。リヒノフスキー侯爵邸での音楽会への参加も増えベートーヴェンは交友範囲を広げていった。翌年、マリー・アントワネットがジャコバン党独裁下で処刑され、この頃より陸軍大尉ナポレオンが頭角を現してくる。 こうした状況下でヴァルトシュタイン伯爵がヴィーンに移る。ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵、ルドルフ大公を加え三人のパトロンを得て安定した生活を保障された。束の間、ヴァルトシュタイン伯爵はケルン選帝侯のフランス遠征に参加し、その後ナポレオン討伐のためにイギリスに向かう。この頃、断固として反フランスを貫くヴァルトシュタイン伯爵とナポレオンを崇拝するベートーヴェンは仲違いをし、ヴァルトシュタイン伯爵は1807年までロンドンに滞在する。 ベートーヴェンの創作力は旺盛だった。いわゆる“傑作の森”に当たっていた。特に成長過程にあったピアノ製作の技術が彼を刺激した。「月光ソナタ」(1801年)の作曲の時使用したドイツ製シュトライヒャー・ピアノは音が柔らか過ぎて不満だった。彼の情熱を叩き付けるには他のピアノが必要だった。そこに打鍵力の強いエラール社から最新型グランド・ピアノの寄贈があった。ベートーヴェンの創作力は燃え上がり、「・・・ダダダダダダダダ」が激しく脳裏を駆け巡り、譜面に書きなぐった。 1804年1月初旬、ベートーヴェンは「ハ長調ソナタ」を書き終えた。この戦闘的な音楽を献呈するに足る相手はヴァルトシュタイン伯爵しか思い当たらなかった。愛国者ヴァルトシュタインとナポレオン崇拝者のベートーヴェン。実はベートーヴェンはこの曲と並行して第3番目の交響曲を書き進めていた。その曲はナポレオンに捧げるつもりで書かれていた。有名な話だが、手稿譜の表紙に書かれた「ボナパルト」の名を完成後彼は破り捨て、曲名を「英雄」とした。 恐らくその後になるのだろうが、「ハ長調ピアノ・ソナタ」は正式にヴァルトシュタイン伯爵に献呈された。ロンドンにいたヴァルトシュタインと仲直りしたかどうかは分からない。だが、私財を投じてナポレオンに立ち向かった軍人とベートーヴェンの剝き出しの闘志に埋め尽くされた作品もまた“情熱”の鎖でひとつに括られても良いように思われる。 「ピアノ・ソナタ第21番ハ長調」はやがて「ヴァルトシュタイン・ソナタ」として親しまれるようになった。この音楽に相応しい長文を、ドキュメンタリー風に時代を追って進めてみたが、稀に見る傑作を語るにふさわしい話をお届けできたのではないだろうか。 ![]() イギリス・デッカ・レコードSXL2241のジャケット |