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海外レコード買い付け よもやま話◆ ニューヨーク 第44回 2025年12月11日 私は運転免許証を持っていない。どこの店にも海外から買い付けで訪れる客はいるが、車を持たないことで珍しがられる。しかも、手に提げて帰れる量を買うのではなく、時には500枚を超えるのだ。そんな数の場合は、タクシーを呼んでもらって、ホテルに運ぶ。タクシーが来ない時はメイン・ストリートまで歩く。手で曳くキャリアーに目一杯積んでの移動は結構骨が折れる。ホテルを出る時の出で立ちは、畳んだダンボール箱10個程度にキャリアーだ。このキャリアーは決して丈夫ではない。いや、私の使い方がキャリアーの耐用範囲を超えているのだ。50kgのものを積んでの頻繁な異動は想定していないだろう。例えば、空港でチェック・インの時、重量の限度は20kgだ。そのため、必需品であるキャリアーは3度までの出張にしか耐えられない。 この頃の海外買い付けは年5回ほどのペースだったが、同じ町へ続けていくことで、在庫品の入れ替わりは目立って少なくなっていった。西海岸、イギリスそしてパリ。私が考え続けていたのはニューヨークだった。何故なら、私の店ではアメリカ盤の需要が極めて高く、お客様からニューヨークの情報を戴くこともあった。だが、その頃のニューヨークの治安は極めて悪かった。発砲事件がニュースになることも度々だった。しかも、飛行時間が長いのも気になった。重い腰を上げたのは、下調べをしていてニューヨークにはコレクターを唸らせるような凄い品揃えの店が数件あるということを知ったからだった。数か月後、私はマンハッタンの中心、タイムズ・スクエア界隈にあるホテル・エジソンの受付カウンターの前に立っていた。古い建物だが40階もあっただろうか。近くのブロードウェイには芝居小屋が立ち並び、「ミス・サイゴン」や「レ・ミゼラブル」をやっていた。 第45回 2025年12月18日 1980年代のニューヨークは荒れていた。貧困層が多かった。怖い話をたくさん聞いていたので、私は地下鉄を利用したことがない。地下鉄無しでは仕事にならないロンドンとはまるで違う。中央部の北側に広大なセントラル・パークが広がり、その東側は美術館が多く、西側はメトロポリタン歌劇場や、ニューヨーク・フィルの本拠地エイブリ・フィッシャー・ホールなどがある音楽エリアとなる。カーネギー・ホールはセントラル・パークの少し南側中央である。街を歩けばそれらの会場の演目ポスターが嫌でも目に入る。私は海外買い付けを始めて最初の10年間ほどは、ほとんど演奏会へ行かなかった。仕事本位に考えれば何か後ろめたく感じたからである。だが、根っからの音楽好きなので、次第に足を向けるようになったが、その話題に触れれば“買い付け話”から遠のくので別の機会にしたい。 ニューヨークで最初に入ったのは「G&A」というマニア向けの店だった。屋号は店を共同で始めた二人のイニシャルである。ビルの2階にあって、この二人が一緒にいることは少なかった。ここの品揃えには驚いた。これまで最も品揃えの良かったロサンゼルスの「クラシカル・レコーズ」を越えていた。だが、価格にはもっと驚いた。時にはわが国での価格を越えていた。これでは商売にならない。私が熱心に探しているのを見た店主は、「たくさん買ってくれるなら三割引きにしますよ」と言ってくれたが、それでも割に合わない。私は昼食を挟んで店の在庫の半数ほどに目を通した。価格を考えれば決断を要するタイトルばかりだった。レコード選びの時は顧客の顔がよく浮かぶ。「喜んでもらえそうだから、利益が取れなくとも買おうか」、と言う考えは甘い。帰国後検品・試聴したところ傷や雑音があったら原価も割ってしまうのだ。結局30枚ほど買って店を出た。 第46回 2025年12月25日 ニューヨークにはマニア向けの店がもう2件あった。品揃えは良いがやはり価格が高い。私は気づいた。ハリウッドでレコード店を回った時、数件ある店のすべてが割高だった。それは、観光客目当てによるものだ。映画の町を目指して世界中からやってきた人たちは、少々高くても欲しいものは買っていく。同じようなことがニューヨークのレコード店の価格にも言えるのだろう。短期観光客であれば、思いがけないレコードに出会えば金に糸目は付けない。しかも、そのレコードはハリウッドやニューヨーク旅行の思い出になるのだ。ニューヨークにレコード店はたくさんあったが、十分なクラシックを揃えているところは少なく、さすがにジャズやロックを扱う店が多く、いつでも混んでいた。そんな店に限って片隅にある処分品の中にクラシックのレア盤が見つかったりする。 当時のニューヨークのホテルの部屋には必ず電話帳が置いてあった。それは2冊あって、ひとつは個人別のもの、もう一つはイエロー・ページと言う黄色い紙に印刷された職業別だった。イギリスではどこの町に出掛けても駅に着くやすぐに電話ボックスに駆け込んだものだが、ニューヨークはホテルのサービスが良く、電話ボックスに人が並ぶのを気にしないで、職業別を開きレコード店を落ち着いてチェックできた。ニューヨークのレコード店は100件近くあったと思うがクラシックを扱っているのは十数件だった。私はそのすべてに電話をして必要な情報を得た。つまり、クラシック・レコードの在庫の可否とその数、そして定休日と開店時間は必須だった。こうして私はその後ニューヨークで最も大きな取引店となる「アカデミー・ブックス&レコーズ」を見つけた。あまり大きな期待をせずに出かけて行ったその店は大きなショー・ウィンドウに本やレコードを飾り、奥行きも相当あった。 第47回 2025年12月31日 ニューヨークの「アカデミー・ブックス&レコーズ」(以下「アカデミー」と呼ぶ)のレコードは3割しかなかった。だが、5千枚ほどのほとんどがクラシックだったので、2日ほどかけてゆっくりとみることが出来た。しかも在庫品の入れ替わり(業界用語で回転と言う)が速く、いつ行っても新着がある。このような店には、例えば10日間の旅であれば、初日と最終日そして中間の日というふうに3度訪れる。私の買いっぷりに目を配っていた店主やレコード部門のマネージャーとはすぐに親しくなった。店主は50代半ばの学者肌の男で、店に出ていることは殆ど無く、いつもオフィスで読書に耽っていた。私もまた読書好きで、歴史的名作の単行本を必ず一冊持ち歩いていたので、彼は興味を示し、すぐに仲良しになった。私がもっと英語に堪能であれば興味深い会話を楽しめただろうと悔やんでいる。 レコード・マネージャーのジョセフは、目抜き通りのブロードウェイを闊歩しているビジネスマンのように、垢抜けした紳士だった。彼はいつも言葉少なで、鋭い眼光で部下の指導をしていた。アカデミーはタワーレコードなどを除けば、個人経営の店としては最も大きかった。商品はきちんと整理されて並んでいたし、価格はステッカーが貼ってあるだけだったが、品質管理は行き届いていた。海外のレコード店から見ればわが国の管理は信じがたいだろう。一枚ごとビニール袋に入っていることは珍しいし、価格は直接ジャケットにシールが貼られている。時には床に重ねられていたり、もっとひどいのになるとレコードの上を店の飼い猫が歩いていたり、その上で寝ていることもある。そんな店ではレコード面に猫の髭が付いているものも目に入る。つまり、検盤のためにレコードを内袋から引き出した時に起きた静電気で猫の毛が盤面にくっついてしまうのだ。 第48回 2026年1月8日 アカデミー・ブックス&レコーズ(以下アカデミーと呼ぶ)は2階に店と全く同じ広さの倉庫を持っており、そこには10万枚近いレコードの在庫が山と積んであった。アメリカでは日本のレコード会社が流通で使用する箱よりは4割り方大きめのものを使う。1枚ものをぎっしり詰めれば120枚入る。ここでレコードの重さに触れておこう。私は経験上ジャケットに入ったレコードは通常4枚で1Kgと考えている。だから、4000枚の荷を作れば1トンの重さになる。 またひと箱の重さは30Kgとなり、これを上げ下ろしする作業には大変な労力がいるが、これがレコード・ハンティングするものの大切な仕事であるから、体力に自信がなければ続けられない。実際長年の間に何度かの“ぎっくり腰”を経験しているし、80歳にならんとする今の私には、どうしてもアシスタントが必要である。 アメリカの家屋は天井が高い。アカデミーの2階の天井も高い。彼らはそこにレコードの入った箱を6段重ねにする。これを上げ下ろしするときは、目一杯レコードが入った箱の山を階段のように積み重ねて、その上を登っていく。一番上は2メートルを超え、天井までは30センチほどの隙間があり、そこで箱を開いてレコードを取り出してチェックすることもできる。進めやすい作業は、上の段からレコード箱で出来た階段を上り下りしながら上部の箱をいくつか下ろし、見終えた箱は目一杯にして、新たな山を築いていくのである。この作業で私が可能なチェックは一日(約8時間)80箱、つまり8000枚のレコードである。昼食は差し入れが多いが、大抵はハンバーグかピザ。それをキャニオンならぬ見上げるようなレコード箱の峡谷に囲まれて一人黙々と食べる。侘しいなどと思ったことは一度もない。好きなレコードを目の前にいつも鼻歌交じりだった。 第49回 2026年1月15日 80年代のマンハッタンは荒れていた。国民のうっ憤は経済大国日本に向けられ、迷惑な話題は尽きなかった。だが、私はレコードを購入する客としてどこでも大歓迎された。現在の円安など考えられぬ時代で、円はどんどん上昇した。ドルは比較的安定しており、いつでも1ドル=110円前後。荒れたマンハッタンを象徴するものはいろいろある。例えばマンハッタンの中央部ほど凸凹の多い車道は無かった。直すための公費が無い。ニューヨークのタクシーは“ラビット”と呼ばれた。でこぼこ道を飛ばすので兎のように跳ねたからだ。私は弾んだ拍子に天井に頭をぶつけたことが何度かある。そしてよく見かけたのは“ジョンカー”。分かり易く言えば廃車同様のぼろぼろの車だ。一昔前は格好良く走っていたキャデラックが錆びだらけ凹みだらけで我が物顔で走っていた。 「ホテルは安全を買え」と言う言葉がある。良いホテル内で犯罪に会うことは少ない、あるいは中程度以上のホテルは安全だ、を意味する。だから、経費がかさんでも比較的良いホテルを選んだ。安全のためにマンハッタンでは出来るだけタクシーを使った。タクシーは全て黄色に統一され、“イエロー・キャブ”と呼ばれた。ロバート・デ・ニーロ主演の「タクシー・ドライバー」は私が良く行った頃のマンハッタンが舞台で、とても怖いニューヨークの恥部が描かれている。映画を見ている間頷けることが多かった。荷物の無い時は必ず助手席に乗った。行き先を指示しやすいし、時にはドライバーと話が弾んだ。それでも、悪徳ドライバーに遭うことも多い。特に空港への往復は痛い目に遭うことが多かった。遠回りされたり、メーターが壊れているなどの理由で高額な運賃を要求された。だが、多い時は500枚ものレコードを運ばなければならないのでタクシーは必要だった。 第50回 2026年1月22日 年5回程度の海外買い付けは順調に進んだが、そのために社内にいてするべき仕事、つまり接客や通信販売のためのリスト作りなどに支障をきたすようになった。品揃えが好評を得て顧客も増え、多くの人から「無理だね」と懸念されていた商売は軌道に乗ってきたが、私一人ですべてをこなすのは難しくなった。将来に備えるためにも後進を育てなければならないと考え、少しずつ増えてきた従業員の見込みあるものに、海外出張をを任せることにした。勿論、私が先頭に立って進めなければならないが、せめて年に1~2度任せることが出来れば社業にとってもプラスになるだろうと考えたのである。かと言って、これには困難が伴う。単なる海外旅行でも危険は伴うのに、大金を持っての買い付けは不安が大きい。そして、私自身、部下の出張中は新たな心配の種が増えるのだ。 とりあえず、アメリカ西海岸から部下の出張は始まった。取引先はどこでも親切に受け入れてくれた。買い付けに慣れている私と部下の成果には大きな開きがあるものの、人は成長するものだ。2~3年してイギリスにも部下が出向くようになった。数年経って、社員にとっては海外出張で成果を上げることが大きな満足になっていった。私が切り開いた道を後進が歩んでいるということは私にとっても励みである。それでも、海外買い付けは私の仕事の中枢をなす。これまで開拓した出張先は社員に任せて、私は新たな買い付け先を探すのが大きな目的となった。例えば、フランスはパリだけではないし、イギリスにはスコットランドやウェールズもある。そしてアメリカでは、ボストンやシカゴなどの話はアメリカで出会ったコレクターたちの間で時々出てくる。それにドイツやオランダも魅力がある。円高や神武以来と言われた景気の上昇に支えられて私の夢は膨らんだ。 よもやま話 目次へ |