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海外レコード買い付け よもやま話



◆ パリ

 第31回 2025年9月11日

 アメリカへ行き始めてからも、ほとんど交互にイギリスでのハンティングは続いていました。イギリスでは相変わらずロンドンと南部のブライトン地区が中心で、アメリカはロサンゼルスのみでした。私はより広い品揃えをするためには、他の地域にも足を延ばす必要があると、いつも考えていました。魅力を感じていたのはパリとニューヨークでした。でもそれぞれに不安がありました。それは、ニューヨークの治安の悪さとパリでの言葉の壁でした。ニューヨークにおける発砲事件は頻繁に放送されていました。その点ロサンゼルスは思った以上に安全でした。ニューヨークでは日本人が巻き込まれる事件も耳にしましたが、ロサンゼルスでは、日本人がコミュニティーを築くほど多いために事件に巻き込まれることは少なかったのです。そんな時に興味深い記事をある経済紙で見つけました。

 文化欄を半ページほど使った音楽関係では珍しいもので、『世界三大レコード・コレクター、ギー・デュマゼール氏の話』でした。三大コレクターとは他に誰のことなのかは分かりませんが、デュマゼール氏のことが丁寧に書かれていました。SP時代からの10万枚以上のコレクションをパリの自宅に持っていること。特にSPレコードのLPへの復刻に意欲を燃やしていることなどが分かりました。言葉の壁への不安など吹き飛んでしまい、私は早速彼に手紙を書きました。どんな文面だったか覚えていませんが、すぐに丁寧な返信が届きました。数行の短いものでしたが、地図のコピーもあったように覚えています。それからパリの下調べが始まりました。町は数か所を中心に道が放射状に延びており、とても歩きにくいことは容易に察しがつきました。でも、誰もが憧れる芸術の都のことを想えば、音楽のみならず好きな絵画のことも頭を巡って体が熱くなる思いでした。

 第32回 2025年9月18日

 「地球の歩き方」という国別に分かれた旅行案内の本は熟読し携帯しました。中には多くの旅の経験談や注意事項が書かれており、たくさんの事例が載っていました。空港から出ていたパリ行きのバスは「オペラ座」前が終点でした。その頃は多くの旅行者と同じようにキャスター付きのカバンを引きずっていた私は、バスを降りるやすぐに後ろから来た中年の男に早口で声を掛けられ、カメラのシャッターを押されました。それはポラロイド・カメラで、私の写った写真を取り出した彼は、「あなたの記念写真だ、○○フランだよ」と言って手を出しました。私はとっさに気付きました。先の旅行案内で読んでいたものと同じ手口でした。私は「いらないよ」と言って跳ねのけましたが、執拗に追ってきます。少しして、彼がふといなくなったと思ったら、傍に立っていた警官が私に目くばせをしました。
 チェック・インを終えるや、しばらくはパリの地図とにらめっこ。足を運びたくなる名所が山ほどあり、デュマゼール氏との約束まで2~3日あったので街を歩きました。勿論、レコード店の下調べは済ませていたので、中心部を歩いて数件の店で買い物をしました。パテ赤枠ジャケットがやたらと目につきましたが、慣れないフランス・フランの換算で頭が混乱。これは、ユーロ統合の前の話なのです。さて約束の日、胸をときめかせてホテルを出ました。向かったのはバスティーユ。そこから北に延びる細道ルー・ドゥマンシュ。これは突き当りにムーラン・ルージュがあります。長い道路の中ほどで、住所番号を見てベルを押すや、少しして壁半分くらいの大きな扉が空き、笑顔の初老の男が現れました。「ムッシュウ・ヤマダ」~「ウィ・ボン・ジュール」と簡単な会話を交わすや、彼は私を中に招き入れました。パリの住宅は殆どがアパルトマン(集合住宅)。彼の家は一階でした。

 第33回 2025年9月25日

 扉を開ければ短いトンネルのような薄暗い通路があり、両側に数段の階段を持った入口。奥の方は広い庭が開けているように見え、その後、フランスの古い住居の多くがこうした建物だということが分かりました。家に入れば奥様のお出迎え。いかにもパリ風の品の良い方で、華奢な手を差し出されたので軽く握手をしてお辞儀も加えました。多くの外国人は日本人のお辞儀に慣れていないのですが、この方は、にこりと笑ってお辞儀を返しました。私はその仕草がとても美しく見え、すぐに好意を持ちました。彼女がステレオ初期に多数の録音を残したパリ・オペラ座のプリマ・ドンナ、ルネ・ドリアその人であることは直ぐ後でデュマゼール氏が話に加えたことで分かりました。レコード・ハンティングにはこのように夢のような出会いもあるのです。
 レコードはちょっとしたスペースにも山のように積んでありました。ハンティングに訪れる人は殆ど無いようで、壁一面に収められたものだけでも2万枚は下らないでしょう。私は溜息とやる気が同時に出てきて、早速レコードを選び始めました。耳にしていたフランスの古い名門レーベルが次々と出てきます。何より先に価格を確かめなければなりません。深く考える様子もなく、デュマゼール氏がさらりと提示した金額に私は耳を疑いました。彼は相場を知らないのではなく、欲が無いのでしょう。すっかり気が大きくなった私は拍車を掛けました。選んだレコードは100枚くらいまで重ねていきますが、その山は一つ二つと増えていき、6つほどになった頃は日が落ちていました。その間デュマゼール氏は顔を見せずに、時折奥様が飲み物やお菓子を届けに来ました。どうやらご主人は出掛けていたようです。一日では見切れない量に、私は明日の約束をして家を出ました。

 第34回 2025年10月2日

 翌日もデュマゼール氏宅を訪れたが、それでも足らず三日間に及んだ。彼は口数は多くないが、レコード選びをしている私の傍に座って、興味深そうに眺めている。ときどき頷いたり首を傾げたり。穏やかな優しい目を向けている彼は全く邪魔にならないが、そのうち決まって鼻歌を始める。美声ではなく、声量がある訳でもないが、しっかりとしたメロディーラインが耳に入れば、オペラ好きの私は放って置けなくなる。大抵は聞き覚えのあるアリアなどだが、時には覚えのない美しい音楽を耳にする。「今歌っていたのは何ですか」と尋ねれば、「ん、ユダヤの女です」とか、「ああ、これは白衣の婦人」などと、とんでもない曲名が飛び出す。彼は大変なオペラ通だった。後で知ったことだが、かつてはヴェガ・レコードの録音ディレクターだったのだ。しかも奥様はオペラ座のプリマ・ドンナ。
 「歩いて5分ほどのサント・トリニテ教会へ行ってみないかい」と出し抜けに言われた。「この時間ならメシアンのオルガン演奏が聴けるかもしれないよ」。今思えば痛恨の判断だが、私はレコード選びの忙しさで、得難いチャンスを逃してしまった。いや、その後二、三度声を掛けられたのだが、断ってしまった。「近所にはドビュッシー所縁の場所もありますよ、行ってみますか」の誘いも受けなかった。それよりも私の頭は、次々と出てくるレア盤の数々で占められていた。デュマゼール氏とのお付き合いはその後20年も続いたが、彼は私を誘わなくなった。レコード選びを中断させるのをためらったのだろう。パリではいくつかの良い店を見つけ、イギリスと遜色のないハンティングが可能になり、英・仏・米へ交互に出掛けるようになり、海外買い付けは年5回ほどに増えた。ある時デュマゼール氏が言った。「次に来た時は、私の別荘に行こう。パリよりたくさんのレコードがありますよ」と。

 第35回 2025年10月9日

 遅れて着いたわけでは無かったが、デュマゼールご夫妻はアパルトマンの入口で待っていた。傍には落ち着きなく尻尾を振っている愛犬のバンビ(チワワ、フランス語ではシワワ)。皆で乗り込んだ乗用車はパリの町を抜け一路東へ。それほど経たずに両側に広い農地が広がる。一時間もたった時小さな村に差し掛かり、デュマゼール氏が「ランチ」と言って古めかしいレストランの前で止まった。給仕(ガルソン)との会話の様子から、デュマゼール氏が常連であることが分かる。彼はメニューを見ることもなく私に「フィッシュでいいかい」と尋ねるや、頷く私を見てガルソンは離れていった。私はホーヴでのグレイ氏との昼食を思い出し、フランスではデュマゼール夫妻と同じお付き合いが始まるのだと思った。料理が届くや途端にバンビが忙しなく尻尾を振り始め、賑やかな昼食になった。
 レストランは別荘とのほぼ中間点だった。途中廃墟に近い建物が道の両側にいくつも見えた。それらは中世の建物の名残だった。歴史的なものを大切にするのは、それが自慢だからだ。両側に広大なトウモロコシ畑が広がる曲がりくねった道を抜けるや、再び小さな村。数分後に車は止まった。ルネ・ドリアが「ヴォワラ(ここだよ)」と言ってドアを開けるや、バンビが飛び出していき、大きな扉の前で声を上げている。しっかりした石造りの大きな二階家で外壁一面につた植物が這っている。中に車を止めて家と庭を案内される。ここから驚きが続き大きな期待が膨らむ。部屋と言う部屋の壁一面に所狭しとレコードで埋まった棚が並んでいる。私は世界の大コレクターのコレクションを前にしている実感がやっと湧いてきた。レコードの部屋は5つか6つあり、残りは台所、食堂そして寝室だった。その後広い庭も案内されたが、ハンティングを始めたくてうずうずしていた私だった。

 第36回 2025年10月16日

 数の少ない部屋でも一万枚、多い部屋ではSPを含めて三万枚ほどのレコードがあっただろうか。私のレコードを見るペースは一日で五千から八千枚。これぞと思うレコードは必ず検盤するので時間がかかるのだ。つまり、彼のコレクションのすべてに目を通すには十日かけても無理だろう。レコード棚はセクション別に分けてあったが、更に細かくは分別していない。見慣れないセクションがあった。『メロディー』、つまり『声楽曲』だ。フランスなら『シャンソン』かと思ったら違っていた。そのメロディーとオペラはやたら多かった。私が個人的に最も好きなジャンルなので、ついつい時間をかけてしまい、後になっていつも悔やんだ。これらをたくさん選んだら、最も売れ行きの悪いジャンルなので痛い目にあう。結局この時は5日間ほど滞在し、その後は毎回同じペースで別荘に通うようになった。
 デュマゼール氏は日程を提案して下さった。夜の9時までレコード選びをしてホテル送ってもらう。ホテルは民宿と言っても良いような小さなものが車で10分ほどのところに2~3件あった。民家に手を加えたような安宿だったが、居心地はとても良かった。朝食を終えた8時過ぎに誰かが迎えに来て、別荘に着くなりレコード選びが始まる。昼食は夫妻と一緒に軽く済ます。忙しなく尻尾を振っては飛び回っているバンビが場を和らげてくれる。それは一時間を超えることなく仕事に戻る。今度は長い。6時過ぎには夕食が始まる。デュマゼール氏は、ワインセラーから上等なものを持ってきてテーブルの真ん中に置く。私はその赤白のラベルを見るのが楽しみだった。せいぜい名前と産地が読めるくらいだがそれがいいのだ。デュマゼール氏にはワインの味わい方を一から教わった。別にワイン通では無かったが、ワイン無しの夕食など考えられない人たちだった。

 第37回 2025年10月23日

 デュマゼール氏と出会う以前に、パリで最も足繫く通ったのは街の中心にあるミュゼ・ギャランという音楽専門店と、セーヌ川の対岸カルチェ・ラタンの一角にあったクラシック・レコード専門店のダメ・ブランシュだった。マニア向けのクロコダイルという店は女性が経営しており、値下げの交渉には全く応じてくれなかった。パリの町は大きな広場を中心に道が八方に広がるので、地図無しで歩くのは大変だったが、10回を超えた頃から地下鉄の利用に慣れていった。パリの地下鉄は中心街を少し離れると地上に出るので景色も楽しめた。私は買い付け中レストランに入ることは少なかった。特にレストランなどに入れば貴重な時間を失ってしまうからだ。だから、パリならばバゲットをかじりながらレコード棚に向かっているのが普通だった。どんな店でも大目に見てくれたものだ。
 ハンティングに夢中になっていた時にある客から、ブリュッセルが面白そうだという話を耳にした。具体的な店の名も教わった。以前ベルギーのリエージュにはボベスコのレコードを探しに出かけたことがある。パリから列車で2時間だ。これを逃す手は無い。ロンドンもパリも行先によって遠距離列車の発車駅が違う。パリでは北はガル・デ・ノール駅、南はリヨン駅だ。ロンドンも東西南北で乗車駅が区別してある。これを身に付ければ非常に歩きやすくなる。我々東北人が東京に行くには上野駅が終着だった時代があった。それと同じだ。そんなことで、パリのホテルに荷物を置いたままで、ブリュッセルまで二泊三日の旅をすることになった。果たして、ブリュッセルの中央駅は見すぼらしいほど小さかった。目的地はルー・ド・ミディという商店街。駅から30分も掛からないので歩いた。途中の人だかりに割り込んだら、有名な「小便小僧」があって用を足していた。

 第38回 2025年10月30日

 ブリュッセルはチョコレートと刺繍で有名だ。目的の店へ行く途中に刺繍店はたくさんあったので、妻のために少し買ったが、チョコレートはいつも無視した。ちょっと方角を変えて歩けば観光客が集まる広場グラン・パレスがあり、その先はオペラ・ファンなら夢にまで見るモネ劇場がある。私が何よりも行きたかったのは駅の傍にある王立美術館で、たくさんのブリューゲルが並んでいる。どの町へ出かけても誘惑は多い。今になって大いに後悔しているのだが、当時の私は仕事一筋で、演奏会も美術館も頭になかった。町の中には広告が溢れており、日本の半額以下で楽しめる演奏会がどこでも行われていたが、それらを素通りして私はレコード・ハンティングのことしか頭になかった。当時、日本人はエコノミック・アニマルと騒がれていたが、私はこの嫌いな言葉に当て嵌まっていたのだろう。
 さて、目的の店「デ・ポッド」に着いた。大きなショー・ウィンドウに本やおもちゃが並べられ、僅かにレコードもあった。開店時間まで時間があったので、通りの向かいでコーヒーを飲んだ。窓越しに「デ・ポッド」を眺めていたら、ちょっと太ったおばさんが現れて、店を開けて中に入っていった。私も立ち上がって、テーブルにコインを置くや、道を横切って店に入った。「ボンジュー・マダム」と声を掛けて、トローリー(携帯型台車)と小さな荷物を預けて、「レコードなら2階にあるわよ」の声を聴いて階段を上った。2階はレコードで埋められていた。勿論、デュマゼール氏ほどの数ではないが、オランダ・プレスのフィリップスやドイツ・プレスのグラモフォンが沢山あるのが嬉しかった。何故ならイギリスやフランスでは、それぞれ英プレスや仏プレスのものが多かったからである。即座に思ったのは、オリジナル・プレスを探すにはやはりオランダやドイツに行かなければならないのだと。


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