Home
オンラインショップ
通販リスト閲覧
ご利用ガイド
コンディションについて
アクセス
レコードへのこだわり
取り扱い絵本
海外レコード買い付け
  よもやま話
エセー 目次
リンク集

 買えば
  買うほど
   安くなる
 1万円以上で1割引 
 2万円以上で2割引 
 3万円以上で3割引 

お問い合わせは
 こちらへ

info@sendai-record.com


携帯ショップ用QRコード

海外レコード買い付け よもやま話



◆ ロサンゼルス

 第24回 2025年7月25日

 イギリスでの買い付けが5年を超えた頃、お客様との会話の中で、アメリカのレコードの話が頻繁に出るようになりました。私の仕事はお客様の求めに応じて世界のレコードを集めることだと考えていた私はその話を耳にする以前からアメリカでの買い付けには興味を持っており、積極的に情報を集めていました。当然買い付けに出掛けねばならぬと思っていた折も折、ロサンゼルスからFAXが入りました。それを読んで私の心は浮き立ちました。「あなたはトスカニーニのレコードに興味を持っているようですね。私の店にはたくさんのアメリカ・トスカニーニ協会盤があります。是非お出かけください」といった内容です。かつて私はロンドンの英トスカニーニ協会盤を制作していたマイケル・トーマス氏より、たくさんの協会盤を買い付けたことがあり、それを広く販売するために「レコード芸術誌」に広告を出したことがありました。アメリカの業者は、どうやらそれで知ったようです。
 アメリカにもっと早くに出掛けなかったのには大きな理由がありました。治安の悪さへの心配があったのです。今ほどクレジット・カードが使える時代ではありませんでした。多くの店では現金を要求しました。そのため私はいつも懐に大金を入れていなければならなかったのです。あちらこちらで発砲事件が起きる都度、日本のテレビでも報道されましたが、報道されない数多くの事件が日常的に起きていました。西海岸とニューヨークはとても危険でした。しかし、輸入レコードを取り扱う限りは、アメリカ盤を扱わないわけには行きません。RCAリヴィング・ステレオやブルーノ・ワルター、そしてウェストミンスター盤は皆が欲しがっていました。私は重い腰を上げました。腹帯にぐるりと大金を忍ばせてアメリカに向かったのです。目的地は映画ファンには夢の街ハリウッド。

 第25回 2025年7月31日

 アメリカでは危険を避けるために近距離でも出来るだけタクシーを利用することにしました。ロサンゼルス空港に降り立った私は、イギリスとあまりにも違う人々の様子に不安になり、とにかくまっすぐホテルまでタクシーを飛ばしました。ホテルは東西に延びるハリウッドのメイン・ストリート(歩道にスターの名の入った星印がならんでいる)から北に200メートルほどの閑静な場所にありました。さらに300メートルほど行けば有名な野外演奏会場のハリウッド・ボウルがあります。ここにホテルを取った理由は、私にFAXを送ってくれた店から約2キロの地点にあったからです。夕方だったのですが、窓からは大勢の観光客が歩いているのが見えます。私はハリウッド散策にも出ずに、ホテルの部屋で読書をしてアメリカでの最初の夜を静かに過ごしました。
 翌日、その店の開店時間に合わせて私は出掛けました。定刻よりちょっと前に着いたのですが、それから30分待っても店の人は現れませんでした。ハリウッドから僅か2ブロックしか離れていないのですが、人通りは少なく心細い思いがしました。背が高くがっしりした男が遠くから急ぎ足でやってきました。50歳くらいに見えるその男はとても愛想よく、遅れた詫びを言い、鍵を開けるや私を店に招き入れました。大きな店で、私は隅々まで見渡し、時にはレコードを手に取って価格やコンディションをチェックしたりしました。そんなところに若い従業員も出勤してきて、頷いた彼は私を奥のドアのところに連れて行きました。扉が空けられて、8段もの木の棚にぎっしり並べられたレコードを見て私は愕然としました。所々に平積みになっているレコードを見て、それらの多くがアメリカ・トスカニーニ協会のものだということはすぐに分かりました。

 第26回 2025年8月7日

 イギリスの協会盤とは違って、ジャケットは殆ど単色ながら印刷されたもので、何よりも嬉しかったのは、レコード・ラベルにトスカニーニの肖像があったことです。全部で30種ほどのタイトルがあったでしょうか。さらに、カンテルリのセット物を見つけたときは驚きました。そこには少なくとも2000枚近い協会盤があり。中にはひと箱全部が同じもののこともありました。翌日も出掛け、二日がかりで私は1000枚を超える協会盤を買いました。イギリスでは、ホーヴのルビニ・レコードで同量のレコードを買うことはありましたが、当時の私にとって、これは大きすぎる買い物でした。大喜びした店主は私を何度もハグしました。大男なので体が痛くなるほどでした。それらをホテルに運ぶにはタクシーで2往復しなければならなかったのですが、幸いホテルは数分の距離だったので助かりました。
 ホテルの部屋に運び込むには勝手には出来ません。必ずポーターに頼む必要があるのです。5年間も通ったロンドンでは馴れていました。ストランド・パレス・ホテルのポーターはよく覚えています。ロイド、ジェフそしてイタリア系のアントーニオ。彼らはチェック・インする私を見るや、「Mr.ヤマダ、今度はいつまで居るんだい」と顔を綻ばせます。私は荷物一個について1ポンドのチップを遣っていたので、彼らには人気がありました。アメリカでは、これを1ドルにして、同じように部屋に運んでもらいました。こうして私の部屋に運ばれたレコードの箱は、次第に山を成し、メイドの不平を買うことになりましたが、メイドにも相応のチップを弾んだので、いつも喜ばれました。やがて帰国前ダンボール50個の山が築かれれば、日本の運送業者がチャーター・トラックで引き取りに来るようになりました。これらを引き渡すには数枚の輸出及び日本への輸入書類が必要になります。これには度々悩まされました。国による違いもあったからです。

 第27回 2025年8月13日

 大量のトスカニーニ協会盤を手に入れた私は、当然のようにトスカニーニのコレクションの幅を広げ、RCA盤を買い漁った。どこの店に行ってもたくさん見掛けた。盤質も良く、ジャケットを含めて、良いものだけを見比べて手に入れることが出来るほど豊富にあった。レコード選びで大切なことは品質である。チェックには手間がかかるが、品質の良さは信用に繋がるので慎重を期す。この点、イギリス盤の方がアメリカ盤よりずっと品質が良かった。イタリアでは新品でも粗雑な作りがあった。だが、RCA盤はアメリカが本場であり、イギリスのものよりずっと人気があった。私のアメリカ盤のハンティングはRCA/LM盤から始まった。これにイギリス協会盤を加えれば鬼に金棒で、ファンには黙って見過ごせない「トスカニーニ秘蔵盤コレクション」が出来上がる。
 こうして、100タイトルを超す特別リスト「トスカニーニ特集」が出来上がった。それぞれのレコードは数枚の在庫を揃えていたので、大きな反応を期待できる。注文は時間を決めて電話で受けた。数人の社員が電話口で待機して応対した。それからが大変だった。電話は一時間以上鳴りっぱなしで、レコードの山はみるみる低くなり、在庫の無くなるものも続出した。驚いたことに、この「トスカニーニ特集リスト」は全タイトル完売と言うことになった。もちろん複数売れたものも多かった。私の店では開店当初から頻繁にリストを作り、それが販売の要になっていたが、50年ほどの社歴の中で、この時ほど大きな販売率を上げたことは無い。このリストはしばらくの間語り草となり、トスカニーニ・コレクターの間では大きな信用を得ることになった。アメリカ協会盤はその後もハリウッドの店で手に入れることができたので、そのリストで買い逃した方のために多くのものを買い続けた。

 第28回 2025年8月21日

 今やすっかり観光化された渋谷ハチ公前の交差点のように、ハリウッドは東西に延びるハリウッド通りと南北に延びるハイランド・アベニューの交差点が中心になります。西に行けば有名なチャイニーズ・シアター、東に10メートルも行けばマクドナルド1号店がありました。南に向かえばハリウッド通りと並行して、歌で有名なサンセット通りと(古着屋が多く)若者の集まるメルローズ・アヴェニューがあります。ハイランドとメルローズでは多くのレコード店を見つけ、当時の私にとっては十分な数のアメリカ盤がハリウッドを中心に集まるようになりました。ある日の夕方、メルローズのレコード店の店先に書いてあったメッセージが目に入った私は感動しました。《Save the Records》。短い言葉でなんと言い当てている言葉でしょう。しばらくしてからこの言葉を私の店頭でも掲示しました。
 ハイランドには2件の大型店がありました。『クラシカル・レコーズ』はその名の通りの専門店。初めて訪れた私は在庫の多さと内容の良さに驚き、また浮足立ちました。初めての店では、まず店頭で目ぼしいものを物色します。大抵は、その動きを窺っていた店主が一時間もすれば声を掛けてきます。「倉庫にはもっとたくさんあるよ」と。案の定ここでも声が掛りました。私は屋根裏のようなところに通され、蜘蛛の巣を払い除けながらレコードを選びました。名盤が続々出てきました。選んだレコードの山はどんどん高くなり、店主は時折声を掛けに来ます。500枚ほど選んで、ひとまず価格を確認しようと思い、入口近くにいた店主のところに20点ほどのレコードを持って行って尋ねました。返ってきた価格は途方もなく高いもので、他店の3倍もしました。彼は値下げの交渉にも応じません。一日を無駄にした悔しさがありましたが、私は全てをキャンセルして店を出ました。

 第29回 2025年8月28日

 ロサンゼルスには頻繁に出かけるようになりました。何よりも飛行時間は8時間と短く、朝到着するので行動し易かったのです。イギリスとアメリカへ交互に出掛けるようになりました。クラシック・レコードと言えば圧倒的にイギリス盤の人気が高かった時代ですが、そのために競合店はアメリカ盤に手を出さず、そのお陰でアメリカ盤をたくさん揃え始めた弊社が喜ばれるようになったのです。要望が多かったのはRCAとコロムビア。共にアメリカで活躍したアーティストを中心に多くの名盤を抱えていました。中でも一番人気は「リヴィング・ステレオ」の名で呼ばれたRCAの初期ステレオ録音。ライナー、ミュンシュそしてハイフェッツのオリジナルLPの良品は中々見つからず、運良く手に入ったものは、タイトルを問わず奪い合うように買い手がついたものでした。
 しばらくの間、ハリウッドを中心に回っていました。メルローズ通りにあった店『アーロンズ』は珍しくクラシックLPの在庫が豊富で、クラシック愛好家のレコード・ハンティングを満足させていましたが、何年かしてハイランド・アヴェニューに移り、2倍ほどの大きな店になりました。ここの店主は私を気に入って、いつでも陰の部屋から新着の詰まった段ボール箱をたくさん持ってきては見せてくれました。ここでは大量に買っても、ホテルまでタクシーで一区間ほどだったので、選ぶ手はついつい止まらなかったものです。小柄な店主はクラシック好きで、サイン入りポートレートの蒐集家でもありました。私との話の途中、思い出したようにオフィスに戻るや、小さな箱を持ってきました。その中には数十枚の写真が入っていました。私は個人的興味からそれらの半数ほどを希望しました。思った以上の価格を提示されましたが、嬉しさのあまりにその値段で買ってしまいました。

 第30回 2025年9月4日

 ロサンゼルスには何度も足を運びました。アメリカ盤を取り扱う店が少なかったせいか、今では信じられないほどよく売れました。その頃日本にタワー・レコーズが開業しました。東京で最も大きな店が石丸電気、間もなくハンターと言う名の大型中古店が出来て、愛好家は忙しくなりました。タワー・レコーズはロサンゼルスから始まったと思います。ハリウッドの西の方でサンセット通りの外れだったと記憶しています。日本のタワー・レコーズは私の店とも取引していました。ドイツ・グラモフォン盤でバーンスタインのベートーヴェン全集が出た時、私は思い切って100セット、タワー・レコーズに注文して瞬く間に完売という記録を作りました。そんなことが評価されたのか、タワー・レコーズは私に仙台店を立ち上げて欲しいと内々に持ちかけました。私が断ったら、彼らは札幌店をオープンしました。
 タワー・レコーズの従業員からの話で、副社長ソロモン氏のことを聞きました。彼は大のオペラ・ファンで、仕事と趣味の見境なく大量のオペラ全曲盤を在庫したというのです。半信半疑でロサンゼルスの本店に出掛けた私は、そこで全在庫の3割ほどを占めるオペラ・プライヴェート盤が目に入ったのです。恐らく倉庫にはその数倍あったに違いありません。それらは当時トスカニーニ協会盤に匹敵するほど珍しいもので、JBR、HRE、MRFなどで埋め尽くされていました。そのレパートリーはイタリア盤ライヴ・レコードの比ではありません。私はそれらの音質やプレスの良いことも、MRFなどの解説書は一級品であることも知っていました。個人的なコレクター意識がむらむらと起きてきました。できればそれらを資金の許す限り購入したかったのですが、思い止まりました。何故なら、飛ぶように売れたイタリア盤の売れ行きはすっかり下火になっていったからです。


よもやま話 目次へ