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エセー 《観たい・言いたい・聴きたい》



第50回 2026年5月19日

ブラームス『哀悼歌(ネニエ)』:その作曲の背景


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 今ではほとんど知られていないヘルマン・ゲッツと言う作曲家のことから話を始めたい。何故ならゲッツはブラームス以前に『ネニエ』を作曲しているからである。当時のプロイセン州で生まれた彼は20歳でベルリンに出て名門シュテルン音楽学校に入学。ここで大指揮者でもありピアニストでもあったハンス・フォン・ビューロに学び、作曲とピアノ演奏の能力を驚くほど高めた。彼の作品は明瞭ながら穏健かつ内向的であり、モーツァルトやメンデルスゾーンに範を取り、時として壮大な楽想を展開したものの多くは控えめだった。
 1862年音楽院を卒業したゲッツは、翌年カール・ライネッケの支援を受けてスイスのヴィンタートゥールのオルガニストに任命されたので移転した。スイスに移ったのは幼少期に罹患した結核を治すためだった。彼は短い一生(になるのだが)を不治の病と闘い続けたのだ。確かにアルプスの空気は病の進行を遅らせてくれたが、辛い日々が続いたことは明らかだ。
 1864年、24歳のゲッツは演奏会序曲『春』を、尊敬する7歳年長のブラームスに献呈し、翌年避暑地としてスイスを訪れていたブラームスと出会い交友が始まった。二人の性格は大きく異なっていたために親密な関係を築くには時がかかったが、ゲッツは自信作『ピアノ四重奏曲変ホ長調』を再びブラームスに献呈し、当時ヴィンタートゥールに住んでいたにもかかわらず、お互いに寄せ合う関心は高まっていった。だが、翌年ブラームスが訪ねてきた折に、どうしたものか二人の間に亀裂が入った。ブラームスは「ゲッツの目はフンパーディンクと全く同じ輝きをしている」とクララ・シューマン宛の手紙で語っているが、フンパーディンクはブラームスが嫌っていたヴァーグナー派の一人だったので、ゲッツに対する軽蔑の意があったかもしれない。
 ゲッツは当時の重要な芸術的潮流には大きな関心を寄せた。ゲッツの中ではブラームスもヴァーグナーも、そしてリストもすべて偉大だった。そこがブラームスにとっては認めがたいところだったのだろう。それでも彼の内向的な音楽と、並ならぬ作曲の腕は次第にブラームスの心を動かし、互いに大切な友人としての交友が深まっていくのである。ゲッツのそうした作曲態度はたちまち認められるタイプではなく、それをしっかりと見極めることのできる数少ない音楽家または愛好家によって大家と並ぶ評価を与えられていくタイプだった。

 ヘルマン・ゲッツが間違いなく作曲技法を完全に身につけていたことは残された多数の作品で立証されている。後に批評家バーナード・ショーはゲッツのヘ長調交響曲をメンデルスゾーンやシューマンそしてブラームスの作品以上に評価し、グスタフ・マーラーはいくつかの作品を演奏し世に示した。だが、実際彼の業績が知られるようになったのは20世紀も末になってからである。世の中には忘れられている作品が山ほどある。これらを知ることなく、名曲名演奏のみを繰り返し聴くことが決して良いことではないと思うのだがいかがだろう。
 ゲッツの交友は広がった。1867年日曜日のカジノでローラ・ヴィルトと言う女性に出会って翌年結婚し、ハンス・フォン・ビューローや仲の良いヨアヒム・ラフとも再会した。多くの友人との出会いが続き彼は幸せだったし、ラフの紹介でブライトコップフ・ウント・ヘルテル社からの出版も叶った。この年と翌年は正にゲッツにとっては奇跡のような年になったのである。
 1874年、ゲッツの代表作とも言えるオペラ『じゃじゃ馬馴らし』がマンハイムで初演され当代一のオペラ・ブッファとの評判を得た。この作品が今日広く演奏されないのは惜しいが、私は幸い二種類のレコードで聴き、完成度の高さに驚いた。この台本作家ヨーゼフ・ヴィクトル・ヴィトマンがオペラを成功に導いたと確信したブラームスは、ゲッツを通じてヴィトマンと交友を結んだ。何とブラームスがオペラ作曲への関心を示したのである。親交を深めた二人の間では共同制作の話まで進んだと言われる。
 同じ年、ゲッツはシラーの詩による『哀悼歌(ネニエ)』を作曲する。これは、「すべての生あるものに死は訪れる(生者必衰)」という内容を持ったもので、恐らくドイツではよく知られたものである。ゲッツは自分が余命長からぬことを認識していた。それがこの曲を作るきっかけになったのではないだろうか。その音楽は悲しみや苦しみを感じさせぬ、むしろ安らかな死を迎える喜びさえ感じさせる。誕生日の四日前に天に召された彼は、愛するモーツァルトの享年と同い年だった。
 『じゃじゃ馬馴らし』の見事さにブラームスは一層台本作者ヴィトマンに関心を寄せたが、『交響曲第一番』の作曲に忙しく、手が回らなかった。ゲッツが取り組んでいた次のオペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』は未完成のまま残された。作曲の過程を時折見ては、これを絶賛して完成を心待ちにしていたブラームスは、ゲッツが自分にこのオペラの完成を望んでいたと知っていたが、結局マンハイムの音楽監督エルンスト・フランクに譲った。

 掛け替えのない友アンゼルム・フォイエルバッハを失ったブラームスはアンゼルムの義母ヘンリエッテに、ゲッツが既に発表していた『哀悼歌(ネニエ)』を、シラーの詩をまったく変えずに同じオーケストラ伴奏の混声合唱曲として作曲したものを献呈することになる。その経緯を今度はヘンリエッテ側から見て行こう。
 ヘンリエッテは高名な医師の娘として1812年に誕生し、1834年、4年前に妻に先立たれた考古学者フォイエルバッハと結婚した。彼には二人の子供がおり、5歳になる男の子が将来大画家になるアンゼルムだった。ヘンリエッテは学才に富んだ夫人であり、ラテン語・ギリシャ語そして音楽に長じていた。ホメロスやヘシオドスそしてヨハネによる福音書をギリシャ語原文で読み、音楽ではピアノ演奏は勿論、ハイデルベルクに移ってからは合唱団の指揮をしたり、自宅でコンサートも開いた。
 15歳になる息子が画家になる意思を示した時、ヘンリエッテは「そうしなさい!」と即座に言って励まし、デュッセルドルフ・アカデミーへの道を開いてやった。彼女は無批判に息子に愛情を傾けたのではない。例えばローマで息子がベックリンに近づいた時は、余りに傾向の違った芸術であることを懸念して鋭く警告した。そのようなことは数限りなくあったが、アンゼルムにとって彼女は母親以上の存在だった。これには過保護と言う言葉は当てはまらないだろうが、アンゼルムが20年近くもローマに住んだ背景には、偉大な母親から距離を置くことの必要性を感じたからではないだろうか。
 ヘンリエッテの家で開かれたサロンの常連客にはクララ・シューマンとブラームスもおり、二人ともヘンリエッテの古典への造詣の深さには敬服していた。アンゼルム・フォイエルバッハはローマに暮らしたが、彼の精神性が義母ヘンリエッテから影響を受けたものであることは間違いがない。アンゼルムは「ローマは私の運命だった」と言っており、古代とその芸術に異常な傾倒を見せ、古代の再表現に尽くすことになった。ブラームスは手紙の中で「この素晴らしい女性(ヘンリエッテ)と彼女の輝かしい息子(アンゼルム)!」とこの母子を称えている。
 ヘンリエッテは息子の本質を誰よりもよく知っていた。穏やかな古典画の筆を執っている姿に、溶岩のように燃え盛る情熱を見て取っていた。このような姿に戸惑いを感じることもあったが、それこそが真の芸術を生む源であることを彼女は誰よりもよく知っていた。
 1876年3月、アンゼルムは肺炎に罹患し、3か月後ヴィーンで辞職願を出した。その直後ヘンリエッテはニュルンベルクに移り、ヴェネツィアでの画業に勤しんでいる息子のところと行き来する生活を始めた。それが3年続き1880年1月、息子アンゼルム・フォイエルバッハはヴェネツィアで客死した。享年50歳。

 親友を失ったブラームスの嘆きは大きかった。ヴァーグナーやリストに対抗して古典音楽を標榜する彼にとって、美術の世界で自分と同じ道を歩んでいた偉大な同志と共に歩むことはもはやできないのだ。嘆き悲しむヘンリエッテの思いは痛いほど伝わってきた。義母などと言う言葉が如何に空しいことか。この義母があってこそのアンゼルムだった。ヘンリエッテは正に慈母だった。ブラームスが悲しみと絶望感をぶつけるのは音楽しかなかった。逝ける偉大な魂に僅かなりとも報いてやりたかった。だが、いくつかの文献が指摘しているようにブラームスはヘンリエッテに哀悼の意を示さなかった。これは憶測も生んでいるがここでは触れない。
 伝記作家マルコム・マクドナルドは、ブラームスがシラーの詩に作曲するきっかけになったのは、6年前に初演されたゲッツの作品『哀悼歌(ネニエ)』であったと考えている。実際ブラームスはシラーの詩を知っていたが、ゲッツが作曲を始めたことで手を付けなかった経緯がある。双方の音楽を聴き楽譜を比べ見た私も影響は認める。そして、ゲッツの死後未完成で残されたダンテ原作によるオペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』の素晴らしい出来を称賛していながらも、大作『交響曲第一番』作曲の忙しさのため遺志を継いでやれなかったことをブラームスは悔やんでいた。ゲッツの死の翌年、後悔の念を持ち続けていたブラームスは、モテット『おお救い主よ天をひらけ』をゲッツ夫人ローラに献呈した。
 アンゼルムの死後一年半を経て、ブラームスは“詫び状”を添え『哀悼歌(ネニエ)』をヘンリエッテに献呈した。シラーの詩はギリシャ神話に題材をとったもので、「生ける者は誰しも死を免れられない」ことを3つの有名な話でまとめている。これはアンゼルムにとっても、いやそれ以上にヘンリエッテにとっては喜ばしい題材であるとブラームスは確信していた。ゲッツは避けがたい病で先の短いことを知り、己の命をシラーの詩に重ね、ブラームスはアンゼルムを重ねた。そして、ブラームスの『哀悼歌(ネニエ)』を生涯の宝にしたのはヘンリエッテだった。

ヘルマン・ゲッツ
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