仙台レコードライブラリー(直輸入・中古レコード専門店です) |
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海外レコード買い付け よもやま話第1回 2025年2月13日 好きなレコードに仕事として付き合えること。まして、それらを買い付けるために海外に出掛けて利益を生むなんて、愛好家には夢のような話です。でも、それを四十年も続けてきた身であれば、楽しいことも辛いことも、話は尽きません。 筆者(仙台レコード・ライブラリー社長の)山田は、30歳の時に開業しました。私の社会人としてのスタートは、シンガポール日本人学校での音楽教員(文部省・外務省の共同派遣)でした。そんな事情から、開業の数年後、輸入レコードへの魅力離れがたく、海外直接買い付けの夢が膨らんで、勝手知ったるシンガポールに出掛けたのです。シンガポールには仲の良いレコード店が数件あり、有名なオーチャード通りにあったベートーヴェン・ハウスと言うレコード店の経営者ミスター・コーンは、来日して我が家に泊まっていった仲で、彼曰く、「お前の為なら百万枚を用意するぞ」と。いや、とんでもない、私にとっては千枚が関の山。結局千枚にも届かぬ数を輸入しました。そこで起きたのは、税関での商標の話。つまりCOLUMBIAやVICTORそして犬のマークの無資格輸入は出来ないとのこと。何とも理解しがたい規制に、私は丸の内の郵便局に呼び出され、ジャケットおよびラベルの該当部分をすべて切り取らされるという苦痛を嘗めました。勿論、仙台に入荷後それらはほとんど利益なしの価格で売る以外にありませんでした。一方で、口の悪いお客様からは、「赤道直下から仕入れたんだから、反っているんだろう」などと根拠のない悪口を叩かれたり。私の初めての海外買い付けは、そんな訳でとても辛い思いから始まりました。さて、それから数年後の2度目の出張は?次回。 第2回 2025年2月20日 COLUMBIAやVICTORの商標権と言う壁は、海外出張の前に大きく立ちはだかりました。開店当時、在庫の半数は東京の輸入元から仕入れた海外盤でした。その輸入元でさえ商標権には泣かされており、剝がすのが難しいシールなどが張られていました。例えば、東京の老舗などでも同様の時代でした。次第に声が高まり、商標の管理者である日本のレコード会社は、使用代金を徴収し、使用許諾シールを張る方向に改善していきました。業歴が短かったにもかかわらず、わが社が許諾資格を容易に得ることが出来たのは、日本コロムビアや日本ビクターとの直接取引があったからです。 さて、2度目の出張は、こともあろうにイタリアに行ったのです。これは単にオペラ好きな私のわがままでしたが、劇場通いを我慢をして仕事に徹しました。ミラノとローマに行って手当たり次第にレコード店を回りましたが、当然のことながらどこの店でもイタリア盤中心。グラモフォン・フィリップス・EMI盤なども数多くありましたが、イタリア・プレス。仕方なく買った幾つかの珍しいタイトルに、帰国後興味を示すお客様は皆無でした。その一方で、当時話題になっていたチェトラ・ライヴのオペラなどは大いに喜ばれました。CDが世に出る直前の事です。レコード店は小さな町にもありました。そんな中で一軒のジャズ専門店と仲良くなりました。オルサ・マジョーレ(大熊座)と言う名でした。店主は恐らくアメリカとの取引があったのでしょう。ジャズの名盤で埋め尽くされていましたが、今から十年も前に廃業したようです。間もなく、先のわが国にもチェトラ・ライヴの輸入元が出来、国内で容易に手に入るようになりました。これは、飛ぶように売れました。 第3回 2025年2月27日 イタリア盤の買い付けは、同業他社が手を付ける前だったことで飛ぶように売れましたが、それもつかの間、輸入専門業者が大量に仕入れ、全国に出回ったために、長く続きませんでした。それでいて、私のイタリア熱は冷めやらず、なんとか直接仕入れをしたいとの思いで、再度イタリアに足を向けました。怖いもの知らずの私はこともあろうに有名なレコード会社であるチェトラの門を叩いたのです。歓迎はされたものの、新譜の買い付けは望めず、廃盤商品の山から選ぶだけでした。そして、彼らの口から出たのは「永竹由幸」の名。日本への輸出窓口は全てこの御仁を通じるべしとのこと。この時、ミラノやローマの他社も訪れましたが、どこでもこの名が出て門前払いでした。 オペラ好きの私は著書を通じて永竹氏をとても良く覚えており、親しみも感じておりました。レコード会社からの情報を得て、私は臆面もなくミラノの永竹氏のオフィスを訪ねたのです。そこでは思いがけない歓待を受けました。オペラ談義が尽きず、どれほど長い時間話し込んだことでしょう。従業員の女性スタッフの方々もオペラ好きでした。そして、あろうことか当夜のスカラ座の招待券があるからと誘いを受けたのです。演目はペルゴレージの蘇演物でした。永竹氏ほどイタリア語に通じていない私は英文のページと首っ引きで観劇しました。素晴らしい出会いに心残りのまま帰国しましたが、その翌年だったでしょうか、帰国なさった永竹氏は東京でANF(アンフ)というレコード輸入元を立ち上げました。私は待っていたかのように取引をはじめ、大好きなオペラ・ライヴを(恐らくは全国に例のないほどたくさん仕入れました。) 第4回 2025年3月6日 イタリア・チェトラからリリースされた50を超える「オペラ・ライヴ」の数々は、オペラ愛好家にとっては嬉しさの極みでした。1~2セット購入して満足する方は少なく、二桁を揃えて買う方も大勢いらっしゃいました。中でもマリア・カラスのライヴは数多く、一番人気でした。これに呼応して、ライヴ・シリーズを発売するレーベルがいくつか続きました。メロドラム、レプリカ、モヴィメント・ムジカ、フォイヤーそしてパラゴンなど。中には、オペラに限らず、トスカニーニ、フルトヴェングラー、ミトロプーロス、デ・サバータなどの歴史的名演奏を提供するレーベルもあり、こちらはオペラ以上に話題になりました。そんなことで、私は3度目のイタリア出張に出掛けました。 この時から本格的な中古店巡りが始まりました。もはや、グラモフォンやEMIのイタリアプレスに手を延ばすような愚かなことはしません。そして、目ぼしいメーカーや店にはあらかじめコンタクトを取ることも覚えました。永竹さんが独占なさっていたにもかかわらず、メロドラムでは歓迎されました。このレーベルの社長はイーナ・デル・カンポという女性で、「アンナ・ボレーナ」でマリア・カラスとの共演歴のあるアルト歌手でした。社長室に通されましたが、開口一番、「その椅子には昨日、ジュゼッペ・ディ・ステファーノが座っていたのよ」と言われた時は飛び上がらんほどに驚きました。リリースされたレコードは彼女のドイツ好みを反映して、カイルベルト、ベームなどがあり、オペラ好きの私は気に入られて、少量ならという条件で、取引はすんなりと始まりました。 第5回 2025年3月13日 1980年以前、4度目の買い付け旅行で初めてロンドンを訪れるや、レコード店の多さに唖然としました。コレクターにとっては、初期盤の宝庫であり、聖地と考えられていました。私が求めたのはクラシック音楽だけでしたが、十分な数を揃えている店は、十数件あったでしょう。そして、その中の数件は、コレクターのたまり場であり、経験の浅い私には目もくらむような高値で取引されていました。私は若くしてシンガポールで3年間生活し、むさぼるようにレコードを買い、そして聞きました。それがレコード店を開業することに繋がったのです。シンガポールが独立して間もない頃で、支配していたイギリス人が帰国するときに山のようなレコードを処分していきました。私は、それらを安く大量に手に入れることが出来たのです。今でも人気の高いデッカやEMI初期プレスの多くが混じっており、それらは生きた勉強になりました。 ロンドンもパリも広場を中心に放射状に道路が伸びているので地図無しで歩くのは大変です。それでも、名のあるレコード店の多くは中心街にありました。コレクターの店でもっとも名高かったのはハロルド・ムーアですが、当時のポンドの相場での買い物では、簡単に手が出ません。指をくわえて見ていたものがどれほど多かったでしょう。オペラ好きの私が通ったのはカルーソー&カンパニーという専門店ですが、穏やかな店主がいつも好きな往年の名歌手の復刻盤を流していました。どの店の常連客もレコードの知識が豊富で、まだ、日本人が珍しい時代だったので話し相手をさせられました。 第6回 2025年3月20日 レコード・コレクターにとってロンドンは夢のような町でした。その頃の私の買い付け旅行は毎回10日間前後でしたが、一つの店で3日も過ごすことがありました。CDの発売される直前まで、レコードはよく売れていました。既に廃刊になった『レコード芸術誌』(音楽之友社発行)はずしりと厚く、恐らくここら辺りが頂点で、少しずつページ数が減っていきました。運のよいことに、私の妻の友人が、NHKロンドン特派員の奥様だったので、ロンドンの穴場をいくつか尋ねました。そこで紹介されたのは、ファーリンドン・レコーズという大型店でした。 ちょうどその頃、女流ヴァイオリニスト、ローラ・ボベスコの来日が決まり、思いがけずに、私が仙台での演奏会を主催することになったのです。まだ、一般的な知名度は低く、一部のレコード・コレクターの間で、そのレコードは高値で取引されていることはすぐに分かりました。私は海外のレコード・カタログを当たり、イギリスではORIX社から一枚出ていることを突き止め、早速、FAXを使ってファーリンドン・レコーズと連絡を取り、このレコードを20枚ほどオーダーしました。まだまだ規模の小さかった私の店では、その数が精一杯でした。まだ、演奏家の来日までは期間があったので、私はさらにボベスコのレコードを探しました。そこで見つけたのはベルギーのリエージュにあるデュシェスンと言う舌を噛みそうな名の会社でした。カタログにあるボベスコのレコードの多数を占めるのは、この会社のものでした。私は次の出張でこの店に出掛けてみようと心に決めました。 第7回 2025年3月27日 ローラ・ボベスコは一部の音楽愛好家によってしか知られていない時代でしたが、来日の報が伝わるや、眠りから覚めたようにブームが広がりました。仙台でも公演が決まった理由はよく覚えていませんが、口コミで広がりました。ボベスコはグリュミオーなどと同じフランコ・ベルギー派に属するヴァイオリニストで、その本山であるリエージュ音楽院で教鞭を取っていました。リエージュのレコード店が関わっていたのは当然のことだったのですね。私はロンドンでの買い付けの合間にリエージュに足を延ばしました。ドイツの西端アーヘンから20キロにあるこの町はセザール・フランクやウジェーヌ・イザイを生んでいることでも、私の関心は高まっていました。 デュシェスンというレコード店は直ぐに見つかりました。世界に向けてレコードを制作しているとは思われぬ小さな店で、奥の方に年配の店主が座っていました。この頃東京にも多かったレコード専門店のイメージで、私の口からボベスコの名が出るや大喜びされました。私にとってははちょうど良い、たどたどしい英語でボベスコに関わる長話をしました。勿論、私的にも親しくしているようで、演奏家はこの店にも時々来ているのでしょう。しばらくして、裏の方から次々とレコードの束を取り出してきては、一枚一枚の自慢を続けました。結局、ここで私は10種類にも及ぶボベスコのレコードをたくさん買い込み、満足して日本での演奏会の成功に夢を馳せました。ボベスコは全国何か所で演奏会を催したか詳しくは覚えていませんが、私が揃えたレコードの内容は全国一だったでしょう。 第8回 2025年4月3日 その後、ロンドンを中心に私のレコード買い付けは続きました。イタリア・オペラが大好きだったことにもよるのでしょうが、私が最も好きな指揮者はトスカニーニでした。先に書いたロンドンのファーリンドン・レコードでの話から、私は思わぬ情報を耳にしたのです。日本では貴重盤として知られていたイギリス・トスカニーニ協会レコードの話で、その製作者がロンドン郊外にいるという情報でした。その頃私は日本ワルター協会やブルックナー協会の一員でしたが、この話には浮足立ち、全日程を変更し、先方にはファーリンドン・レコーズを介してアポイントメントを取りました。 ロンドンの北西50Km郊外で小さなレコード専門店を構えるマイケル・トーマス氏を訪ねたのはその翌日でした。店の奥で背中を丸めてガサゴソと探し物をしていた老人はクレンペラーを一回り小さくしたような印象を受けました。鋭い目つきで私を眺めまわすや、奥に入って来いと言う合図。当時よく見かけた本に埋もれた古本屋のように、人がすれ違うのがやっとというようなレコードの山の間を通って、僅かなスペースにたどり着きました。興奮している私を見てトスカニーニ好きだと理解したマイケルは、急に優しい顔つきになり、マエストロ・トスカニーニの尽きぬ話が始まりました。私は午後遅くまでいましたが、客は一人も無かったように覚えています。私がパルマでトスカニーニの墓参までしていたことを知るや、マイケルの態度はがらりと変わり、急に腰が軽くなり、コーヒーも出してくれました。協会盤の話にたどり着いたのは、しばらく経ってからで、私もまた経験豊富な老人の話に夢中になって聞き入りました。目の前には明らかにそれと分かる白ジャケット入りの協会盤が積んでありましたが、それも忘れるくらいに味わい深い話でした。 第9回 2025年4月10日 十数年前に生活していたシンガポールには、『RCA』という名のレコード小売店があって、そこには、アメリカRCA盤が溢れていました。恐らくはどこかの処分品を引き受けたものでしょうが、新たな入荷もあったことと店名を考えれば、直接アメリカのRCA社から流れたものでしょう。しかも、それらの価格は、すべて500円均一だったので、私は毎日のように通いました。片っ端からそれらを聴き進めるうちに、私はすっかりトスカニーニの虜になってしまったのです。今考えれば、不思議なことに再発売の廉価盤はほとんどなく、規格番号LMが中心で、オリジナル盤も相当数ありました。 さて、マイケル・トーマス氏の店に話を戻せば、大好きなトスカニーニの初めて見るレコードの山を前にした私は、シンガポールでのRCA盤を目にした時と同じほど興奮していました。マイケルが制作したLPは全部で25タイトルでした。それらが、箱に詰められて無造作に積み重ねられ、あるいは、そこら中に散らばっていました。私はタイトルに関係なく、すべての品目を20枚ずつ買いました。マイケルは2年ほど前からトスカニーニ演奏のレコード制作を中止しており、その間、メンゲルベルクなどをプレスしていました。勿論私はそれらも加えました。帰国後、レコードの到着までの間、この話は伏せていました。万が一、搬送に手違いがあっては困るからです。これは、その後の買い付け出張の心得になりました。湾岸戦争の時は、貨物船が攻撃を受けたという話もありました。ですから、英トスカニーニ協会盤の全容が、わが『ライブラリー通信』で紹介された時は、大変な話題になりました。 第10回 2025年4月17日 海外での買い付けの話を続けてきましたが、最初の数年間は頻繁に海外に出掛けることなどできません。それほど需要がなかったからです。そんな時に新着レコードを満たしてくれたのは、国内輸入元でした。仕事を始めるにあたって相談した業界の通人から出た名前は3つ。日本レコード貿易、ミューズ貿易そして日本カージナルスの名でした。私はそれらを東京に訪ね、取引をはじめました。それぞれにクラシック音楽には力を入れており、新着レコードを中心に大量の在庫を抱えていました。彼らからは毎週のように入荷情報が入り、そのリストから選んでオーダーすれば、ほとんどの話題盤は品切れなく手に入りました。勿論それらは全てファクトリー・シール(ビーニール・パッキング)の新品であり、国内盤の新譜をメーカーにオーダーするのと同じような感覚で取引しました。 しばらくして私は輸入元から届く情報だけでは満足できなくなり、直接東京に出向いて、彼らの倉庫で新着以外のレコードを物色するようになりました。これは少なくとも月一回は出掛ける私の習慣になりました。倉庫にはリストを作成して小売店に知らせるには数が十分揃わない沢山の珍しいレコードがありました。私は、それぞれの輸入元に半日ほど滞在して、汗を流しながら選びました。少なくとも通常1000枚を超えるレコードを手に入れたものでした。古い在庫に頭を抱えていた輸入元は大喜びでした。都内の店でさえ、年に数回立ち寄る熱心な担当者がいるだけなので、私の積極的な仕入れは大いに喜ばれ、時には思わぬ特価で提供されることもありました。そうして生れた互いの信頼やメリットに加え、その機会に耳寄りな情報を得たり、海外取引のノウハウを教わったり、やがて本格的に始まる海外買い付けのためにどれほど役に立ったことでしょう。 第11回 2025年4月24日 私は30歳の時に店をオープンしました。この年齢で店を構えるのは並大抵ではありません。かつて東京にあったクラシック専門店『ジュピター』のオーナー、角田さんの言葉は今も耳に残っております。「レコード商売は仕入れに始まり仕入れに終わる」。これは今でも座右銘として大切にしています。東京の3つの輸入元は開店に当たって極めて好意的で、多くのレコードを委託品として提供してくれました。つまり、しばらくの間預かって、売れないものは戻しても良いということです。これは大きな力となりました。一方で、国内盤も揃える必要がありました。この仕入れは二通りあって、望ましいのは十社以上あるメーカーと個別に取引をすること。もう一つは星光堂という卸を通じることです。私は後者と契約をした上で、国内メーカーの一社一社と契約を進めていきました。 各社との取引には契約保証金というハードルがありました。ほとんどのレコード会社は30万円。公務員の給与の数か月分もする額を会社ごとに用立てるのは容易ではありません。今思えば恥ずかしい話ですが、開店初日の品揃えの中で、8割の日本盤はキング・レコードのものでした。何故なら、契約にこぎつけたのはキングだけだったのです。一方で、東京の輸入元の委託品が山のようにあって、何とか体裁を保つことが出来ました。そのことがお客様にとっては喜ばしいことで、「この店は仙台では初めてのクラシック専門店だ。輸入レコードが山ほどある」と高く評価されることになったのです。勿論、その後ゆっくりですが、日本のメーカーとの取引は進んでいきました。やがては、輸入盤と国内盤が同数の在庫となり、その後お客様のご要望に応えて、じわりじわりと輸入盤が増えてゆき、それに伴って、海外出張の必要性も高まってきました。 第12回 2025年5月1日 インターネットが普及した今と違って、レコード店を探すのは容易でない時代でした。わが国で愛好家に広く読まれていた『レコード芸術誌』と同じように、イギリスでは『グラモフォン誌』が発売されていました。これらの雑誌には主に巻末に多くのレコード店の広告が掲載されていました。勿論、多くの店は広告掲載料を払えるだけのしっかりした店でした。これは情報収集に大いに役立ちましたが、更に役立ったのは電話帳です。それには二つの種類があって、一つは個人の電話番号帳、もう一つはイエロー・ページと呼ばれた企業用です。後者は取扱品目別にとても見やすくなっており、しかもおおよその住所も書かれています。私はどこの街を訪ねた時でも、この中のレコード店ページを参考にしました。時には駅に着いたらすぐに電話ボックスを探して、備え付けの電話帳を見て片っ端から電話を掛け、営業時間やクラシック・レコードの在庫の有無やら数量を確認しました。 この作業をホテルで進めるのは楽でした。公衆電話ではボックスの外でイライラして終わるのを待っている人が良くあったからです。こんな時には数件電話をするなどできません。ホテルではノートに書き写しながらゆっくりと作業が出来ました。調べがつくや、目ぼしい店には直ぐに出かけました。幸いレコード店の多くは繁華街にあったので、道に迷うことは滅多にありません。まだワープロもなく、何事も筆写の時代であり手帳は欠かせません。帰国後それらは清書して、膨大なレコード店のリスト作りが進められました。しかも、訪ねた時の印象や購入数や価格レベルなども書き入れたので、ノートは出張時の必需品になりました。時代は変わり、ワープロ管理で整理しやすくなり、今は余りにも便利なパソコンに頼る中、何故か昔の作業が懐かしく感じられます。 第13回 2025年5月8日 生産数が大きく減ったとは言え、レコードの時代は続いていました。そんな中で往年の名盤に目を向ける人も多くなってきました。つまり『お宝探し』です。イギリスのEMIとデッカはひときわ人気がありましたEMIは名演奏が豊富なこと、デッカは音質の良さ。ですから、廃盤や過去の遺産に目を向ける場合、イギリスへ行けばほとんど間に合いました。私は少しずつ他の国にも興味が湧いてきましたが、ヨーロッパ大陸の国々は言葉の壁、アメリカは治安の悪さのために、なかなか足が向かなかったのです。 最初のイタリアへの旅から5年ほどは、ロンドンを中心に回っていました。あの広いロンドンの街を地図無しで歩けるようになりました。宿はコヴェントガーデン歌劇場やロイヤルフェスティヴァル・ホールに近いところに決めていました。音楽好きの私ですから、オペラや演奏会は欠かせなかったからです。いわば仕事冥利ということでしょう。この頃よく出掛けたのは、ホテルからテムズ川に架かるウォータールー橋を渡ってすぐのところにあった、グラメックスという専門店です。私より15歳年上のロージャーという店主を囲んで、レコード・マニアでいつも賑わっていました。時には一日をここで過ごし、多くの情報を得ました。ここでは、マルツィやヌヴーそしてミルシティンの初期プレスや、デッカSXLワイド・バンドのオリジナルがいつも飛び交っていました。私には手の出ない価格で、検番は自由だったので大いに勉強になったものです。そこでは日本人のコレクターにもよく出会いました。会話は少なく、誰もが血走った眼をしていたので、慣れないうちは、私には決して居心地の良い場所ではありませんでした。時には殺気立って、奪い合いになるような場面もあったので、身を置く世界が疎ましくなったものでした。 |