翌日もデュマゼール氏宅を訪れたが、それでも足らず三日間に及んだ。彼は口数は多くないが、レコード選びをしている私の傍に座って、興味深そうに眺めている。ときどき頷いたり首を傾げたり。穏やかな優しい目を向けている彼は全く邪魔にならないが、そのうち決まって鼻歌を始める。美声ではなく、声量がある訳でもないが、しっかりとしたメロディーラインが耳に入れば、オペラ好きの私は放って置けなくなる。大抵は聞き覚えのあるアリアなどだが、時には覚えのない美しい音楽を耳にする。「今歌っていたのは何ですか」と尋ねれば、「ん、ユダヤの女です」とか、「ああ、これは白衣の婦人」などと、とんでもない曲名が飛び出す。彼は大変なオペラ通だった。後で知ったことだが、かつてはヴェガ・レコードの録音ディレクターだったのだ。しかも奥様はオペラ座のプリマ・ドンナ。  「歩いて5分ほどのサント・トリニテ教会へ行ってみないかい」と出し抜けに言われた。「この時間ならメシアンのオルガン演奏が聴けるかもしれないよ」。今思えば痛恨の判断だが、私はレコード選びの忙しさで、得難いチャンスを逃してしまった。いや、その後二、三度声を掛けられたのだが、断ってしまった。「近所にはドビュッシー所縁の場所もありますよ、行ってみますか」の誘いも受けなかった。それよりも私の頭は、次々と出てくるレア盤の数々で占められていた。デュマゼール氏とのお付き合いはその後20年も続いたが、彼は私を誘わなくなった。レコード選びを中断させるのをためらったのだろう。パリではいくつかの良い店を見つけ、イギリスと遜色のないハンティングが可能になり、英・仏・米へ交互に出掛けるようになり、海外買い付けは年5回ほどに増えた。ある時デュマゼール氏が言った。「次に来た時は、私の別荘に行こう。パリよりたくさんのレコードがありますよ」と。