イギリスの協会盤とは違って、ジャケットは殆ど単色ながら印刷されたもので、何よりも嬉しかったのは、レコード・ラベルにトスカニーニの肖像があったことです。全部で30種ほどのタイトルがあったでしょうか。さらに、カンテルリのセット物を見つけたときは驚きました。そこには少なくとも2000枚近い協会盤があり。中にはひと箱全部が同じもののこともありました。翌日も出掛け、二日がかりで私は1000枚を超える協会盤を買いました。イギリスでは、ホーヴのルビニ・レコードで同量のレコードを買うことはありましたが、当時の私にとって、これは大きすぎる買い物でした。大喜びした店主は私を何度もハグしました。大男なので体が痛くなるほどでした。それらをホテルに運ぶにはタクシーで2往復しなければならなかったのですが、幸いホテルは数分の距離だったので助かりました。  ホテルの部屋に運び込むには勝手には出来ません。必ずポーターに頼む必要があるのです。5年間も通ったロンドンでは馴れていました。ストランド・パレス・ホテルのポーターはよく覚えています。ロイド、ジェフそしてイタリア系のアントーニオ。彼らはチェック・インする私を見るや、「Mr.ヤマダ、今度はいつまで居るんだい」と顔を綻ばせます。私は荷物一個について1ポンドのチップを遣っていたので、彼らには人気がありました。アメリカでは、これを1ドルにして、同じように部屋に運んでもらいました。こうして私の部屋に運ばれたレコードの箱は、次第に山を成し、メイドの不平を買うことになりましたが、メイドにも相応のチップを弾んだので、いつも喜ばれました。やがて帰国前ダンボール50個の山が築かれれば、日本の運送業者がチャーター・トラックで引き取りに来るようになりました。これらを引き渡すには数枚の輸出及び日本への輸入書類が必要になります。これには度々悩まされました。国による違いもあったからです。